ヴォルフガング・ウルリッヒ氏の連続講演「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」のリーフレット

このページではウルリッヒ氏の「レクチャー3|すべての境界が解体した後に —— これからのアート」の講義メモの後半として、ポリティカル・コネクトネス(政治的な正しさ)を求める風潮がアート・ワールドにも浸透しつつあることなどを紹介致します。

レクチャー3講義メモ(後半)

アート・ワールド内にも、政治的な正しさを求める層が台頭

従来〜芸術の自由が法的に保護されていた
しかしその芸術作品の治癒力に疑問が生じれば、その保護も消滅
アートの自由さよりも、アーティストの誠実さの方が重視されつつある

具体的な影響:
社会的(効用の)視点から作品が評価され出し、キュレーターもそのような評価に晒されている
現代の価値観に反する作品に対して、税金を使うことが許されなくなりつつある

事例1〜メトロポリタン美術館に対するバルテュスの《夢見るテレーズ》の撤去要請

名画との評価が定着している本作品に対しても、少女に淫らな格好をさせた倫理的に容認できない作品とみなした人々から、美術館に対して1万人を超える撤去要請の署名が送られた
参考ページ:1万人が署名。バルテュスの《夢見るテレーズ》は撤去されるべきか? メトロポリタン美術館は拒否

事例2〜ドイツの極右アーティストが、SNSの発言が元でギャラリーから契約を破棄される

ライプチヒで活動する極右思想を有するアーティストが、作品の内容ではなくSNSでの極右思想的な発言を理由に、コマーシャルギャラリーから契約を破棄される
アーティストを取り巻くコミュニケーションの形態の変化

従来:
ギャラリストがアーティストを育てる
(アーティスト側からの)忠誠心に基づく密な関係

現在:
プロジェクト単位でその都度集まり、プロジェクトが終了すれば解散
従来のギャラリストとアーティストとの間の密な関係の消滅
キュレーターの存在感の増大

私自身の見解

続いて前述のウルリッヒ氏の講義を聞いて感じた、私自身の見解を述べます。

政治的な正しさも必要だが、度が過ぎると全体主義のような弊害が生じる

私自身も過去に「アンナ・オデル『Okand, kvinna 2009-349701』論争考察~制作意図のみを重視し行為の影響を軽視するアート業界の問題が凝縮された作品」・「作品『症状の肖像』のコンセプトは『パフォーマンスの美学』で取り上げられたアブラモヴィッチの作品『トーマスの唇』から生まれた」などの記事を書きましたように、アートだから何でも許されるとの考え方には大いに疑問を感じおり、それゆえウルリッヒ氏の講義で示されたような政治的な正しさを求める風潮も、ある程度は必要と考えています。

しかしそれと同時に、この風潮も度が過ぎると、全体主義にも似た弊害が生じかねないと考えています。
具体的には、数に勝るマイノリティの好みや価値観を体現するような作品ばかりになってしまう可能性を危惧しています。

市民にも芸術作品に対して物申す権利があるはず

また政治的な正しさを求める風潮を支持するもう一つの理由として、権利の平等性を挙げることができます。

これまでのように芸術作品の価値をアート・ワールドにおける一部の有力者が決めてきたような体制を、政治的な正しさを求める風潮が揺るがしつつあるわけですが、アート・ワールドの外側で暮らす市民にも、芸術作品の価値について物申す権利があるはずだからです。

それをこれまでは都合の良い理論を打ち立て自閉的な(私の見立てでは、それに加えて自己愛的な)楽園を築くことで、特権的に振る舞って来たに過ぎないと考えています。

ですから芸術作品に政治的な正しさを求める風潮に対するアート・ワールドの住人の猛反発は、表面的には表現の自由を脅かすものへの抵抗と認識されていても、より深層では芸術作品の評価基準その他を専制的に定める事ができる立場を脅かされる不安への抵抗ではないかと考えています。

なぜならその立場を失うと、自分たちが大衆とは異なる特別優れた存在であることの証までが揺らいでしまい、その結果存在価値を失い兼ねないからです。
(この辺りの解釈は、アート・ワールドの住人の多くが平均以上に自己愛的な性格構造を有しているとの見解に基づいています。ですから私見です)

即戦力を求める能力主義への移行

最後は、アーティストを取り巻くコミュニケーションの形態の変化についての見解です。
ウルリッヒ氏のこの報告内容を日本の労働環境の変化に例えると、次のように考えることができそうです。

これまでは終身雇用にも似た長期的に安定した契約を前提として、将来有望なアーティストをギャラリストが発掘し手塩に掛けて育てることが通例であった。
しかしある時から能力主義的な制度が普及し出し、その結果「育成型」から「即戦力型」へと移行していった。

このような解釈に至ったのも、プロジェクト(=展示)単位でその都度アーティストが臨時的に集められ、終了と同時に解散するような形態では、キュレーターなどがアーティストを育てるのは困難であり、しかしそれでも展示の質を落とさないことを目指すのであれば、既にその能力を有した即戦力となるアーティストを起用せざるを得ないためです。

しかしこのような形態の環境ばかりでは、新人のアーティストの出番がほとんどなくなってしまい、業界全体の未来が絶たれてしまい兼ねません。
(展示という現場でしか学べないことが多々あり、それらすべてを美大で教え込むのには限界があるでしょう)
したがって従来型の育成システムは、ある程度は残り続けるのではないかと考えられます。

アーティストとは誰かに育ててもらわないと活動できないほど未熟な人間なのか?

ただ個人的には、そもそもアーティストとは誰かに育ててもらわないと活動できないほど、能力的にも精神的にも未熟な存在なのかとの疑問を感じます。
それが当然と思われていること自体、既に「アーティスト=未熟な人間」と認識されている証のように思えるのです。
(同じような人間観は、イラストレーターに対しても存在しているようです)

このようなアーティストを子供扱いするような慣習は、もしかしたら「いつまでも純真無垢な神童のままでいて欲しい」とのアート・ワールド全体の願いが反映されたもので、これが理想的な芸術家像と認識されているからなのかもしれません。

補足)このようなアーティスト像は、今カウンセリングのサイトで執筆中の主体性の記事に即して言えば、主体性が乏しい人に該当します。

ヴォルフガング・ウルリッヒ氏の連続講演「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」のリーフレット
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