青山昌文著『舞台芸術への招待 (放送大学教材)』

表現・自己表現とミメーシス(模倣)との違い+私の作風の解釈

要約:以前から「アート活動=自己表現」という概念に違和感を感じていましたが、『舞台芸術への招待』のダンスの起源に関する説明により、私の作風は本質的な要素の模倣や再現、つまりミメーシスに近いことが理解できました。

今読んでいる放送大学のテキスト『舞台芸術への招待』に、表現あるいは自己表現とミメーシス(模倣)について、非常に示唆に富んだ文章が掲載されていましたので、その文章を援用しつつ私自身の作風について考察してみました。

目次:
自己表現とは
・表出との違い
・表現として成立している作品とは「明確な意思」が感じられるもの
ミメーシス(模倣)の反対概念としての(自己)表現

自己表現とは

まず自己表現とは、Weblioによれば「自分の内にあるものを別の形にして外部化することを意味する語。自己表現には、自分の考えを言葉で人に伝えることや、自分の感情を反映させた芸術作品を作ることなどが含まれる。」と定義される概念です。

表出との違い

またアート・ワールドでは、しばしば作品が「表現として成立しているか」と言ったことが指摘されますが、これは表現以前の表出のレベルで終わってしまっていることを問題視したものと考えられます。

なぜなら表出とは、同じくWeblioによれば「精神内部の動きが外部にあらわれること。また、あらわすこと。使用例「感情の表出」」と定義されているように、感情などをそのまま吐き出すことを意味することから、作品がそのような単なる吐き出しになってしまっていることを危惧してのことと思われます。

表現として成立している作品とは「明確な意思」が感じられるもの

したがって表現として成立している作品とは、自分の内にあるものをそのままストレートに表出するのではなく思考の働き、より具体的には明確な意図が感じられるものと言えるのではないかと考えられます。

ミメーシス(模倣)の反対概念としての(自己)表現

これまで私は、前述の自己表現としての作品の概念を重視しながら作家活動を続けてきましたが、それと同時に自分の創作行為が自己表現であるという感覚に違和感を感じていました。
しかもその違和感は、作品が表出レベルに留まっていることとは異なる理由からです。

そしてこうした思いを抱き続けてきた中、冒頭で紹介した『舞台芸術への招待』の次の文章を目にしたとき、その違和感の正体がはっきりしました。

ダンスは人類の初めからあったと考えられますが、最初から民族によって二種類の異なるダンスがあったと言われています。
一つは内発的、つまり自分の内側から出てくる感情や衝動を外に表すダンス、他方は模倣的、つまり手ぶり身ぶりで外界を模倣するダンスです。
前者は主に脚を使い、後者は主に手を使います。そしてヨーロッパのダンスの多くは前者であり、アジアのダンスは概して後者です。(P.70)

前者の「自分の内側から出てくる感情や衝動を外に表す」行為を表現と規定し、さらに後者の模倣の対象を造形的な要素のみならず物事の本質まで拡張、つまりミメーシスも含むものとすれば、私の作品制作の手法のほとんどは、自分の内側で感じられる感情や衝動を基にしたものではなく、むしろ概念も含めて自分の外側にある対象をモチーフとし、なおかつその対象のエッセンスを何とかアート作品として表現しようとしてきたからです。

このようにこれまでは対象のエッセンスの表象を表現と考えていましたが、古代ギリシア思想のミメーシスには(本質的な要素の)再現の意味合いもあることを考慮すると、上述の私の行為は表現よりも、本質的な要素の模倣や再現を表すミメーシスの方がずっとしっくりきます。

次のページでは、その具体例として2015年にThe Artcomplex Center of Tokyoで開催した個展「Narcissus」の作品を基に考察する予定です。

引用・参考文献

青山昌文著『舞台芸術への招待 (放送大学教材)』、放送大学教育振興会、2011年
青山昌文著『美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)』、放送大学教育振興会、2013年

青山昌文著『舞台芸術への招待 (放送大学教材)』
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