若尾裕著『サステナブル・ミュージック-これからの持続可能な音楽のあり方』

思考偏重かつ「いま-ここ」を楽しむことを許さないモダニズム的思想が現代アート作家を苦しめている

モダニズムの心性が的確に要約された『サステナブル・ミュージック』の「はじめに」の記述

昨年10月に所属のART TRACE GALLERYで開催されたグループ展「作家と本棚」では、企画者の広瀬真咲さんの提案で、作品と共に参加作家が影響を受けた書籍も設置し、来場者に自由に読んでいただくスタイルを採りました。

私の設置した蔵書の多くはアート系のものでしたが、その中に若尾裕著『サステナブル・ミュージック-これからの持続可能な音楽のあり方』という本がありました。
この『サステナブル・ミュージック』の「はじめに」の書き出し部分にハッとさせられた記述が掲載されていますので引用します。

私は音楽が好きで、それを学び、仕事にしてきた。なのに、歌い踊ることより、そのあり方を問題にばかりしている。(中略)
音楽とは何か? あるいは、どうあるべきか? などの問いが発せられ始めるのは、近代からだろう。それまでは、その時その場に与えられた音楽をひたすら享受することにさほどの疑問はもたれなかったに違いない。
しかし近代以後、今の自分のありようを過去からの流れの中でとらえ、そして未来についても思いを馳せるという〈進歩と発展〉の精神のありようが出現し始める。これは現代の社会学において〈再帰的モダニティ〉と呼ばれる概念だ。
ある時代から、人はこの〈モダニティ〉という病にかかり、せかせかと様々な工夫を試み始める。そして音楽も同様にせかせかと変化し始め、目まぐるしくその様式や考え方が変わってゆく。(P.2-3)

短い記述ですが、音楽家に限らず芸術家一般に通ずるモダニズム的な心性を的確に示していると思います。
この記述から2つのことを思いました。

表現を純粋に楽しむことを許さない現代アートの思考偏重の慣習

1つ目は引用文の最初の段落の「音楽が好きで、(中略)なのに歌い踊ることより、そのあり方を問題にばかりしている」から連想された思考偏重の傾向です。

引用文は音楽に関するものですが、この記述を例えば絵や写真に置き換えてみると、好きなものを好きなように描いたり写真に撮ったりしている人はアマチュアとみなされ、プロの作家ではないとみなされる。
この傾向は特に現代アートと称される分野で著しいように思えます。

私が作家活動を始めたのは2012年から(展示は2013年から)ですが、活動当初から諸先輩方から制作は苦しいとの話を聞き、好きなことをやっているはずなのになぜ苦しいのかと不思議でなりませんでした。

しかしこの引用文にあるような考え方が、多くの作家に共有されているのだとすれば、苦しくなるのも当然のように思えました。
なぜならこの思想は、好きなものを好きなように表現することから生じる「楽しい」という感情を「そんなやり方ではダメだ」と否定してしまうためです。

したがって作品を制作するという行為は苦しいのが当たり前なのではなく、作家から楽しみを奪うような業界の暗黙のルールが存在し、そのルールが制作活動を苦しいものへと変えてしまっていることを念頭に置く必要があるように思えます。
つまり苦しい状況は意図的に作られたものゆえ、その気になれば変えられるということです。

もっとも思考の領域にも、知的好奇心という言葉で示されるように快の感情をもたらす要素は存在します。
しかし現代アートの世界では、その喜びすらも封じ込めてしまうような慣習に満ち満ちているように思えます。
次のページでは引用文の後半部分に焦点を当てつつ、この点について考察する予定です。

引用文献

若尾裕著『サステナブル・ミュージック-これからの持続可能な音楽のあり方』、アルテスパブリッシング、2017年

若尾裕著『サステナブル・ミュージック-これからの持続可能な音楽のあり方』
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