今回は「アート写真における写真家と作品モデルとの権力構造についての考察」を書いていて気づいたことを記事にします。
またこの内容を後日、先の記事の2ページ目で参照する予定です。
被写体の人物から見られていることを意識すると、緊張して撮れなくなる
私は今でこそポートレイトの作品を多く撮るようになりましたが、2年前までは皆無で、その理由は関心がなかっただけでなく、人物を撮ること自体に苦手意識を持っていたためです。
またその苦手な理由は、京都造形の写真コースの課題でも経験したことですが、被写体になっている人と視線が合い、その人から見られていることを意識して緊張してしまうためです。
ポートレイトが苦手でも被写体となる人物をモノ化することで撮影が可能となる
ところがその私が、不思議と今は作品制作のために特に緊張することもなくポートレイトを撮影できています。
しかも何かトレーニングを積んだわけでもないにも関わらずです。
そこでその理由を探り気づいたのが、今は緊張せずに撮影できるのは、被写体となっている人物をモノ化(物質化)していたためでした。
モノ化された人物の撮影では「造形」に関心が集中している
例えば作品制作のために初めて人物を撮影したのは「症状の肖像」ですが、このタイトルの一連の作品は、モデルの方にコンセプトに基づいたパフォーマンスを行ってもらい、その様子を撮影しましたが、その時の私の意識は刻々と変化するその方の身体のフォルムつまり造形と動きに集中していました。
このように心を有した人物を撮影しているにもかかわらず、その関心が専ら造形面に向けられることで、その人物から見られているがほとんどまったく気にならなくなるため、私のような苦手な者でも人物撮影ができるようになるのではないかと考えられます。
コンセプトの存在が人物のモノ化を促進する
また人物のモノ化は、コンセプトの存在によるものも大きいと思われます。
コンセプトが存在するからこそ、その具現化が最優先されることで、撮影する人物がその実現のための手段と化すためです。
ですから前回の記事では、コンセプトが写真家に権力を与えることを考察しましたが、その作用にはこの人物のモノ化も寄与していると考えられます。
芸術写真としてのポートレイトでは被写体となる人物が多分にモノ化されている
以上の考察はあくまで私個人の経験から導き出されたものですが、それが何らかのコンセプトに基づき撮影される芸術写真としてのポートレイトであれば、程度の差はあっても人物のモノ化の作用が働いていることが想定され、それが日常的に撮られる記念写真などとの違いではないかと考えられます。
参考文献
ロズウェル・アンジェ著『まなざしのエクササイズ ─ポートレイト写真を撮るための批評と実践』、フィルムアート社、2013年