エリカ・フィッシャー=リヒテ著『パフォーマンスの美学』

芸術家にとって作品は、自尊心の主要な源泉として機能する「分身」のような存在

一昨日、大学の試験を受けました。今回はその時にまとめたレポートの中から、作品と作者(作家である芸術家)との関係について論じたものを記事に致します。

作品と作者との関係~物理的要素編

作品と作者との関係について、まずは物理的な要素について考える。この場合両者の関係は、主に造形芸術と舞台芸術とでは大きく異なる。
造形芸術は典型的には一人の作者がアイディアを練り、制作も同様にして一人で行う。このようなケースでは、誰が作品の作者であるのかは明白である。またその作品も特別な工夫を施さない限りは、経年劣化などを除き外観に変化はない。

対して舞台芸術では、例えば演劇のように筋書きを考える脚本家と、それに基づき演技その他の舞台構成を考える演出家、さらにはその演出に基づき演技する役者とが存在し、これらのどのキャストが変わっても別の作品になってしまう。さらには上演という性格上、仮に同じキャストであったとしても、出来上がる作品はその都度微妙に変化してしまう。
したがって近年は演出家の名前が前面に出る傾向があるとはいえ、特定の個人を唯一の作者とみなすことは不可能であり、むしろ共同制作の産物と言える。

作品と作者との関係~心理的要素編

続いて作家個人の心理的な要素の影響について考える。自己心理学の創始者であるハインツ・コフートの指摘によれば、程度の差はあれど人間誰しも自尊心の源を有し、それを支えに心の健康を保っている。このような作用を彼は自己対象として理論化した(ちなみにこの用語の意味するところは、対象が自己の一部として機能することである)。
芸術家の場合、この自尊心の主要な源泉は自ら生み出した作品であると考えられる。おそらく自分の作品にまったく愛着が湧かない芸術家などいないであろう。

事例~上演作品の一方通行な関係性にメスを入れようとした『観客罵倒』

このことを端的に示すエピソードが、1966年にドイツのフランクフルトで上演された『観客罵倒』である。この作品では俳優と観客との新たな関係が模索され、具体的には観客を上演を黙って鑑賞する立場から解放し、法律の範囲内で一切自由に振る舞っても良いとした。その意図はあらかじめ定められた作品を上演するのではなく、その場で生じる俳優と観客との関係そのものに焦点を当てることであった。

しかしその試みは、観客が次々と舞台の上に雪崩れ込む結果を生み、最終的に演出家が観客たちを舞台から排除する形で幕を下ろした。おそらくその斬新な試みとは裏腹に、その演出家は「自分の作品」という感覚を完全に捨て去ることができず、その結果とっさに自尊心の源である作品をコントロールする行為を通して己の心を傷つきから守ったのであろう。

芸術家にとって作品は、自尊心の主要な源泉として機能する「分身」のような存在

アートの世界ではしばしば「作品は鑑賞者が存在することによって初めて完成する」旨のことが言われる。しかし作品が自尊心の主要な源泉として機能し、多分に自己の分身のように感じている芸術家にとって、自分の一部たる作品のコントロール欲求を完全に手放すことはおよそ不可能である。

したがって作品が酷評されることはもちろんのこと、仮に肯定的なものだったとしても、その解釈が想定外のものだった場合でも、内心少なからず傷つくものである。なぜならそれは作品を介して「あなたはこういう人ですよね」と勝手に解釈、もっと言えば誤解されるに等しいためである。

参考文献

丸田俊彦著『コフート理論とその周辺―自己心理学をめぐって』、岩崎学術出版社、1992年
エリカ・フィッシャー=リヒテ著『パフォーマンスの美学』、論創社、2009年

補足) 自己対象について詳しくは、カウンセリングのサイトの自己愛講座の各記事をご覧ください。

エリカ・フィッシャー=リヒテ著『パフォーマンスの美学』
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