譲原晶子著『踊る身体のディスクール』

常套句や〇〇性の乱用は思考や観察眼、感覚などを退化させる

要約:譲原晶子著『踊る身体のディスクール』を参照しつつ、常套句や〇〇性などの慣用句の乱用は、思考や観察眼、感覚などをどんどん退化させかねないことを考察。

芸術の世界に氾濫する常套句

最初に「7日間ブックカバーチャレンジ」でも紹介した、譲原晶子著『踊る身体のディスクール』の「はじめに」の文章を引用します。

たとえば、「ラバンは舞踊を空間の芸術にした」「バランシンは音楽を視覚化した」とはよくいわれる。(中略)
こうした文句は、同時代の舞踊現象を何とか言葉にしようと、その目撃者たちの感性が捻り出したものだ。ところが時を経て言われ続けることによって、いつのまにか言葉そのものが権威をもってしまい、それ自体ゆるぎない事実であるかのように語られてしまっている。(中略)
こうした常套句によって人の観察や思考が停止させられているのに気づかされる。

常套句の乱用は思考や観察眼、感覚などを退化させる

ここに書かれていることと似たようなことを、美大の通信課程で西洋美術史を学び始めた頃に経験しました。

例えば教科書に掲載された著名な芸術作品の説明書きには、高い精神性などといった言葉が並んでいましたが、高い精神性とは具体的にどのようなことを意味するのかよく分からず、しかし教科書に書かれているのだから、それを感じ取れるようにならなければいけないのだろうとの強制力を感じたものでした。

こうして人は実感を伴うことなく、引用文にもあるように単に知識としてそれらの常套句を覚え、何となく理解したつもりになって行くのでしょう…

ここでは自分が知覚したことを何とか言葉にしようと苦心する態度は皆無で、実質観察力も思考力も停止し、単なる他人の受け売りになってしまっています。

こうした思考や観察力、感覚などの退化を防ぐためには、これらの機能を積極的に使うこと、つまりアウェアネスを鍛え、そこで自分が感じたことを何とか言葉にしようと努力し続けることに尽きると思います。
これは身体組織や機能と同じく、使われない機能は必要がないとみなされ、どんどん退化してしまうためです。

次のページではステートメントなどでよく散見される慣用句について、同様の考察を進める予定です。

引用文献

譲原晶子著『踊る身体のディスクール』、春秋社、2011年

譲原晶子著『踊る身体のディスクール』
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