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作家が写された映像がもたらすプレゼンスと不在の感覚〜諸岡亜侑未「Dig up and Build」を例に

諸岡亜侑未「Dig up and Build」のパフォーマンスの感想と関連して、そのパフォーマンスの記録映像から私自身が感じたことを元に、プレゼンスと不在の感覚について考察します。

初日のパフォーマンスを見た直後に感じたこと

感想記事にも記したように、諸岡さんの初日のパフォーマンスは非常にインパクトがあるものだったため、2日目以降の展示の構成が気になりました。
出来上がった作品をこのまま展示するだけでは、インパクトに差が感じられるように思えたためです。

このため、初日に撮影していたパフォーマンスの記録映像を流すなどするのではないかと予想していました。

初日のパフォーマンスの記録映像から感じたこと〜作者の不在

その後当番で再び展示を拝見すると、予想通り会場には初日のパフォーマンス映像が流されていました。

諸岡亜侑未「Dig up and Build」展示風景1

ところがこの記録映像を見ていて、私の中にこれまでにない反応が生じました。
それは「ここに写っている作家が、今ここにはいない…」という不在の感覚でした。

今回このような不在の感覚が生じたのは、おそらく次の2つの要因が「共に」存在したからではないかと考えられます。

不在の感覚を喚起させる可能性のある作家の映像

不在の感覚を喚起させる要因の1つ目は、作家が写された映像です。
通常展示では、作家が在廊でもしていない限りは、作品のみが会場に置かれていることがほとんどです。
しかしその様子を見ても「この作品の作者は、今ここにはいない…」という感覚は通常生じません。
なぜなら、会場に作家がいないことの方が、展示においてはむしろ当たり前だからです。

ところがその会場にいないことの方が当たり前の作家が、映像の中に映し出されることで、半ば忘れ去られていた作家の存在を意識させ、ひいては私が感じたように、その不在を感じさせる可能性が出てくるのではないかと考えられます。

プレゼンスの実体験が、その後の「不在」を強く意識させる

不在の感覚を喚起させる要因の2つ目は、プレゼンスの実体験です。
プレゼンスという用語は、様々な領域でそれぞれ異なる意味で使われていますが、ここでは目の前に人がいることで感じられるライブな感覚の総体と定義しておきます。
(この意味でのプレゼンスは、不在に対するものとしてと訳されることが多いようです)

感想記事に詳しく書きましたように、私は作家の諸岡さんのパフォーマンスを直に拝見し、なおかつ非常に大きなインパクトを感じました。
このため、その後の当番業務で初日のパフォーマンスの記録映像を拝見した際も、「あの時感じられたインパクトが、今は感じられない…」というある種の喪失感を感じました。

ここでは、以前に感じた非常に強いプレゼンスが今は失われてしまったという、喪失感を伴う不在の感覚が生じています。

面識がない人にとって展示作家の記録映像は、むしろプレゼンスを感じさせる

ところがもし同じ映像を、諸岡さんとは面識がない人が見たとしたらどうでしょう。
おそらくその記録映像は、見ず知らずの作家について、たとえ映像という疑似的なものであったとしても、むしろプレゼンスを感じさせるものとして機能するのではないかと考えられます。

なぜなら面識がない人にとって、作家の、それも作品の制作過程が映し出された記録映像は、その作家の人柄や作家性について、それなりにリアルな感覚をもたらすと予想されるためです。

以上のように展示作家が写された映像とは、面識の有無によって、プレゼンスと不在(アブセンス)という、非常に対照的な感覚を生じさせるものなのではないかと考えられます。

またそれと同時に、プレゼンスや不在という感覚は、それぞれの対象が有する属性から直接的にもたらされるのではなく、むしろその時々の文脈に応じて変化、つまり状況依存的な性質であると考えられることから、特に不在の感覚を意図的に促すパフォーマンスというものに興味を抱くようになりました。

なおこの不在の感覚の促進は、『在と不在のパラドックスー日欧の現代演劇論』によれば、ゲラルト・ジークムント、アンドレ・アイアーマン、ハイナー・ゲッペルスといった、アブセンス論にカテゴライズされる人々によって研究・実践されているようです。

諸岡さんの展示は両国のART TRACE GALLERYで3月22日(日)まで開催されておりますので、ぜひ間近でプレゼンスや不在の感覚を体感してみてください。
諸岡亜侑未「Dig up and Build」公式ページ

参考文献

平田栄一朗著『在と不在のパラドックス―日欧の現代演劇論』、三元社、2016年

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