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カタストロフの表象不可能性と想像可能性についての一考察

明後日に参加する、芸術史ラボ「第4回:社会変革と映像ー20世紀映像表現史」の事前課題をこちらにも掲載致します。

レポート本文

森美術館で開催中の「カタストロフと美術のちから」展の内容を援用しつつ、現代におけるカタストロフの表象不可能性|想像可能性について考える。

ここでの表象の対象が、悲惨な出来事のみならず、それが特に人災の場合、引き起こされた理由つまり当事者の行為の動機までもが含まれる場合は、同展示で藤井光が《第一の事実》で使用した次のテキスト「これらは「どこで」「どのように」という事実であり」「「なぜ」が欠けています」「考古学が扱うのは事実だけです」「状況から真実を知るのは難しいのです」でも示されているように大きな限界があり、したがってその限界を推測つまり想像の機能により補わざるを得ない。
またその想像においてもせいぜい可能なのは、共感的解釈とも呼ばれる得られた情報を元に対象の立場に身を置き想像を試みることのみであり、神秘的な思想を排除すれば、直接的にそれを経験できるわけではない。

では出来事のみの表象なら可能かといえば、これも人間の生理学的特徴を考慮すると、その客観性は著しく失われると考えざるを得ない。
なぜなら我々は、視覚を例にとると三次元の空間情報をそのままの形で知覚することはできず、ちょうどカメラのメカニズムと同じように二次元化された網膜上の像を、脳の視覚野の機能により絵画的手がかりなどを用いて擬似的に三次元化しているに過ぎないためである。
またさらには、この擬似的な三次元化の方法も誰もが同じというわけではなく、経験則に基づき徐々に学習されていくものであるため、文化的慣習や生育環境の違いなどの影響を受けて異なってくる。

以上のように我々が客観的なものと信じて疑わない視覚情報のようなものでさえ、各々が主観的に、つまり解釈を交えて認知しているのであり、したがって厳密にはすべての事象を直にではなく想像的に経験しているのではないかと考えられる。
またこのような事情から、作品などによりカタストロフの表象を試みる場合にも、たとえ無自覚であったとしても想像力を使わざるを得ないのではないかと考えられる。

参考文献・ウェブページ

菊池聡著『錯覚の科学(放送大学教材)』、放送大学教育振興会、2014年
ハインツ・コフート著、水野信義監訳・翻訳、笠原嘉監訳・翻訳『自己の分析』、みすず書房、1994年
デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ著、港千尋翻訳『洞窟のなかの心』、講談社、2012年
http://ludicz.blog.fc2.com/blog-entry-70.html

藤井光《第一の事実》
藤井光《第一の事実》
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六本木ヒルズ・森美術館15周年記念展:カタストロフと美術のちから展 | 森美術館 – MORI ART MUSEUM

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