NO IMAGE

自身の意図せざる写真のフォーマリズム的志向に直面

今回の記事は「鑑賞から体験へ、作品から装置へ」の最後で述べた(写真の)フォーマリズムに関する新たな知見についてです。

装置志向ではあっても、それを実現するためのスキルは皆無…

前回の記事にあるように、来場者に作品を鑑賞するという枠組みから逸脱するような体験をしていただくことを志向すれば、自ずとそのための手段(メディア)を写真に限定する必要はなくなり、むしろ写真表現に固執すれば大きな制約が生じてしまうはずです。

ところが私は、これまで写真以外のメディウムを用いて作品を制作したことがありません(唯一の例外は大学の課題のコラージュ)。
それなら他のメディウムの研究をこの機会に始めれば良いのかもしれませんが、例えば絵画は苦手意識があまりに強過ぎます。
また機械工学や電子工学の知識も皆無なため、来場者とコミュニケーションを図るような装置も作れませんし、それらの知識をどのように習得したら良いのかさえ検討がつかないほどのド素人です。

しかしそれでも関心は装置志向に傾いてしまっているわけですから、諦めたくもありません。
ではどうしたら良いのかと思った時に考えつくのが、慣れ親しんだ写真というメディウムでも実現可能な体験を促す装置というものです。
こうして私の中に、体験を促す装置という概念を写真というメディウムで実現したいとの願望が生じることになります。

フォーマリズムとは?

ここで冒頭の(写真の)フォーマリズムに話を移します。
形式主義とも訳されるフォーマリズム(Formalism)とは、特定のメディウムの自律性を獲得する目的から、典型的には絵画でしか表現しかできないことにこだわり、その実現のために他のメディウムでも実現可能なことをすべて排除する手法あるいは様式のことで、批評家のグリーンバーグらによって世に広められたと考えられています。

自身の意図せざる写真のフォーマリズム的志向に直面

一方、私は既述のように写真の自律性を追い求めたいわけではなく、したがって他のメディウムで実現可能なことを排除する意図も皆無であるにもかかわらず、スキル不足がもたらす制約から、結果的に写真でしかできないことを志向しています。

もちろん私にはフォーマリズムが目指すメディウムの自律性獲得という信念が欠けているため、私の行為はフォーマリズムとは言えません。
しかし排除する意図はなかったとしても、他のメディウムを試すつもりがまったくないのだとすれば、それは結果的には写真でしかできないことを多分に志向することになります。
なぜなら特定のメディウムを効果的に用いようと意図すれば、それは自ずとそのメディウム独自の特性を活かすことにつながるためです。

このように考えると、厳密な意味でのフォーマリズムには「メディウムの自律性獲得」「他のメディウムで実現可能なことの徹底排除」という2つの要件が必須であったとしても、「○○(メディウム名)でしかできないこと」を志向するという程度のことなら、私も含めて多くのアーティストがたとえ無自覚にでも行なっていることになります。

今回の考察により、これまで否定的な立場を取ってきたフォーマリズムも、実は気づかぬうちに似たような志向を私自身も有していたことを自覚するに至りました。

「○○(メディウム名)でしかできないことを志向=フォーマリズム」ではない

また以前に写真新世紀のキャッチコピー「写真にしかできないこと」をフォーマリズムと同一視して批判したことがありましたが、これまでの考察からも明らかなように、両者(両信念)を直ちに同一視するのは誤りであることも判明しました。

NO IMAGE
最新情報をチェック!