森美術館「カタストロフと美術のちから」展の感想。3ページ目は、セクション2「破壊からの創造」の展示作品の感想その1です。
(「カタストロフと美術のちから」展におけるオノ氏の作品への書き込み内容の制限は適切な処置で紹介したオノ・ヨーコ氏の難民船の作品も、このセクションに展示されていました)

セクション2にはコンセプトが明確で、それゆえ訴求力の高い作品が多数ありましたが、その中でも今回と次回に取り上げる2つの作品が特に印象的でした。

スウーンのインスタレーション作品《メデイア》

スウーンのインスタレーション作品《メデイア》(2018年)
スウーンのインスタレーション作品《メデイア》(2018年)

こちらはアメリカのスウーン(Swoon)のインスタレーション作品《メデイア》(2018年)です(クリックで拡大)。
会場で購入した展示カタログによれば、《メデイア》はスウーン自身の家族を巡るトラウマティックなエピソードとそれとの対峙をテーマとしており、それらが「自分の子供を殺すギリシャ悲劇の王女メデイア」などで表象されています。

ですが一番興味深かったのは、これらのテーマを表象した作品にも関わらず、様々な国の子供がその場で楽しそうに遊んだり記念撮影をしていたことでした。
文化の異なる国々の子供が一様に楽しめるということは、スウーンの作品《メデイア》には子供心に訴えかける何か集合的な要素があるのでしょう。

しかし繰り返しますが、この作品が表彰しているのはトラウマレベルのとても辛いエピソードです。
ですから子供たちは、それとは別の何かを感じ取り楽しんでいたのでしょう。

映画『黒いオルフェ』のラストシーンとの共通点

前述の子供たちの様子を改めて思い出すと、それと同時に映画『黒いオルフェ』のラストシーンも想起されました。
リオのカーニバルを舞台とした名作で、アントニオ・カルロス・ジョビンらのボサノバの名曲が使われたことでも知られています。

映画のラストシーンでは、主人公の男性が不慮の事故で崖から転落し、命を落としてしまいます。
ところがその場へ2人の子供が現れ、1人が華麗なステップを踏みながらアコースティックギターを奏で始めます。
そうして楽しそうな2人の子供をカメラは捉えながら、ズームアウトしつつ映画は終わります。

恐らく悲惨なエピソードと楽しそうな子供たちとの対比という共通点から、映画『黒いオルフェ』のラストシーンが想起されたのでしょう。

ドリーミングは生き続ける

前述の2つのケースは、単に子供の無邪気さの表れと解釈することもできるでしょう。
しかし私は別のことも感じていました。

『黒いオルフェ』を見たとき、先のラストシーンから、主人公は死んでもボサノバの精神は生き続け、世代を越えて受け継がれて行く。
そしてやがては、この子たちが主人公の役割を引き継ぐことになる…
映画のラストシーンがそのことを暗示しているように思えました。

このボサノバの精神は主として人間の営みに関わるものでしょうが、北アメリカのネイティブ・アメリカンやオーストラリアのアボリジニのように、自然の征服を目論むのではなく、それと一体化しながら生活している人々は、この感覚を生活全体で感じているようです。

彼らはそれをドリーミング(夢見)と称し、この世のあらゆるものに先祖から受け継がれて来たドリーミングが存在し、かつそのドリーミングは決して失われることはないと信じています。
ですからたとえ侵略者に土地を奪われたとしても、その土地のドリーミングは残り続ける(それまで奪うことはできない)と彼らは考えます。

このネイティブ・アメリカンやアボリジニの人々のような考え方は、絶望的な状況の中でも希望を失わずにいられる心の逞しさを育むように思えます。
その意味で『黒いオルフェ』の子供たちも、スウーンの《メデイア》の前で遊ぶ子供たちも、共に困難な状況の中でも決して失われることのないドリーミングと、それに伴う希望とを象徴しているように思えました。

参考資料

映画『黒いオルフェ』
森美術館編集『カタストロフと美術のちから』、平凡社、2018年
ロバート・モス著『コンシャス・ドリーミング―アボリジニやネイティブ・アメリカンのシャーマンたちから学んだ夢見の技法』、ヴォイス、2002年
アーノルド・ミンデル著『24時間の明晰夢―夢見と覚醒の心理学』、春秋社、2006年

最新情報をチェック!