今回の記事はアートと社会との関わりについて、大多数のアーティストにとってその典型である展示活動を例に、私なりに考察してみたいと思います。
身近でもアート活動が社会と衝突するようになって来ている
以前に藝大とゲーテ・インスティチュートで開催されたウルリッヒ氏の「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」の講義メモの中で、芸術にもポリティカル・コネクトネス(政治的な正しさ)を求める風潮が欧米で台頭して来ていることを紹介しましたが、日本でも同様のことが生じるようになって来ているようです。
私の身近でも、今週あるニュースサイトで、知人の動画作品の内容が障害を持つ方々に不快感を与える可能性があるとして、美術館からの要請で該当部分を黒く塗り潰して公開することを余儀なくされたことを知りました。
また近年は写真のみならず絵画等の創作物においても、作品に性器が含まれていると展示に際して大幅な制限が加えられることが多く、別の知人もその憂き目に遭っていました。
加えてポリティカル・コネクトネスと文脈は異なりますが、昨年たまたま私が個展を開催したギャラリーのそばにあるコマーシャルギャラリーでは、オープニングパーティーの際に水溶性なので問題はないとの認識で公道や隣の建物の一部にペンキをぶちまけたり、他人の敷地に侵入して塀の上に工事用の大型ライトを設置するなどしたため、近隣の住民に通報され警察沙汰になったそうです。
制限に対して常に「表現の自由への弾圧」と反発するのは得策ではない
こうしたアート活動と社会との衝突は、アーティストをはじめとした制作サイドが問題視していなかったことを、外部の人々が問題視したために生じると考えられます。
したがって両者の認識の差が、衝突の根本的な要因と想定されます。
そしてこの認識の差が存在することに対して、アート業界、特に制作者サイドの典型的な反応は「表現の自由への弾圧」「アートへの無理解」であるとして怒りを露わにするというものです。
また(これはアート業界に限ったことではありませんが)「表現の自由への弾圧」の根拠として持ち出されることとして、戦前の言論の統制に基づく思想弾圧が挙げられ、「表現の制限を少しでも認め始めると、やがては戦前の状態に逆戻りしてしまう」との主張がよく聞かれます。
ですがこの種の主張は、私には「完全な自由が認められるか、さもなくば全てを制限されるか」というような、全か無かの極端な思考パターンに思えてなりません。
それだけでなく、この表現の自由の絶対視はヘイトスピーチのような人権侵害を伴う行為を助長し、最高裁判決で有罪が確定したことについても、この行為が表現の自由の保護の対象外とみなされたことの影響が大きいようです。
参考ページ:『ヘイトスピーチと表現の自由』 憲法21条|日本国憲法70年 みんなの憲法|NHK NEWS WEB
また表現でありさえすれば無条件にそれを認めるべきとの主張は、ポリティカル・コネクトネスの思想と真っ向から対立するものであり、これではこの思想を支持する人々との衝突は避けられないでしょう。
ではどのようにしたら良いのかを、後日次のページでアーティスト側、作品に制限を加える側それぞれについて検討してみたいと考えています。