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私説:アートの枠組みだけで物事を判断していると、既存のものをアートと定義し直しただけの作品が出来上がってしまいかねない

アートの概念の際限のない拡張

芸術の世界では古くから既存の価値観に挑戦するような芸術家が現れ、それらの人々に牽引される形で変貌を遂げて来ましたが、その変化の勢いは近代、特に20世紀以降急速に高まって来ているように思えます。
例えばそれは次のような事柄によってです。

・写真や動画など表現媒体の拡張
・ギャラリー等の展示空間を、作品を飾るためのスペースではなく、その空間自体を作品化するインスタレーションの概念の登場
・純粋芸術思想に端を発し、物語性(主題)を徹底的に排除するフォーマリズムの、あらゆるメディウムへの浸透
・従来の作品の概念を大きく覆すコンセプチュアル・アートやランド・アートの登場
・アプロプリエイション、ファウンド・フォトなど著作権に挑戦するかのような手法の登場

当初は写真を除くこれらの新手のアート作品に対して、よく解らないものとして敬遠していた私ですが、やがて美大(京都造形芸術大学の通信課程)に入学し、これらのアートについて専門的に学び始めるうちに、いつの日かその面白さを理解できるようになっていきました。

現代アートの価値観を受け入れた途端、作品のアート性の有無について意識しなくなっていった

ところがそれと同時にもう1つ、私の価値観に大きな変化が生じました。
それはどんどん概念を拡張させ続ける(現代)アートの流儀に慣れ親しむことで、いつしか法に触れる行為*を除き、それがアートか否かということについて意識する(疑問に思う)ことが徐々になくなっていったことです。

*関連記事:アンナ・オデル『Okand, kvinna 2009-349701』論争考察~制作意図のみを重視し行為の影響を軽視するアート業界の問題が凝縮された作品

そしてその変化の結果、私の中に形成されたアートに関する価値判断の基準は、次のようなものでした。

既存のアート作品には見られないような特徴を備えた作品→(無条件に)斬新なアート

このような発想に至るのも、関心(着眼点)が既存のアートと比べてどうなのか?という点にのみ集中し、他の事柄に注意を向けることができなくなってしまっているためです。

いずれ既存物をそのままアートと定義し直したような作品が、無自覚に生み出されるかもしれない

この私のような価値判断がアート業界に蔓延すると、前のページの2つ目の事例のように、従来の価値観なら自治体の公共プロジェクトとみなされていたような試みが、斬新なアート作品としてまかり通ることになります。

このため、このままアートの概念が無秩序に拡張(というより肥大)し続け、なおかつそのことにますます高い価値が置かれるようになれば、やがて(無自覚に)既存物をそのままアートにすげ替えただけのようなアート作品が生み出され、かつそれが斬新な作品として高く評価されるようになってしまうかもしれません。

また斬新さのみに価値をおくような価値観の元では、仮にすげ替えに過ぎない点を指摘されたとしても、すげ替えただけのものをアートとみなすその考え方そのものが斬新なのだと簡単に合理化されてしまいかねません。

以上の考察から、アートの概念その他の拡張を手放しで歓迎する風潮は、いずれアートの貧困とも形容されるような虚しい事態を引き起こしてしまうのではないかと懸念しています。
自戒を込めて…

アートの定義 参考文献

アーサー・C・ダントー著『ありふれたものの変容:芸術の哲学』、慶應義塾大学出版会、2017年

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