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私説:アートの枠組みだけで物事を判断していると、既存のものをアートと定義し直しただけの作品が出来上がってしまいかねない

今回の記事はアートの定義に関する考察ですが、ただしそれはアーサー・C・ダントーらの批評家が考えるアートの定義よりも、もっと現場レベル、つまりしばしば彼らの定義に先立ちアートの定義の拡張を試みるアーティストから見たアートのイメージに近いものを対象としています。

なお記事の構成として1ページにアートの定義もしくは境界の曖昧さ象徴するようなアート作品を2つ示し、2ページ目では少し前までその曖昧さにさほど疑問を感じていなかった私自身の心の働きを探る形で、その気になれば「何でもアート化されてしまいかねない」現状を生み出している要因を紐解きます。

また今回2つのアート作品を提示したのは、これらの作品が今日のアートの定義もしくは境界の曖昧さを端的に示す好例と考えたからであり、作品の価値を否定するものでは決してありません。
むしろいずれも、それがアートか否かに関係なく、とても優れた試みだと思います。

再掲:石橋友也氏のアートにも科学的研究にもなり得る試み

20世紀に入ると、既存のアートの枠組みをはみ出す試みが、作風のみならず表現媒体や概念、制作過程にまで及んできたため、「アートと思えば、それはすべてアートになる」と揶揄されるほど、アートと非アートとの境界が曖昧になってきました。

その一例が以前に「私説:現代におけるアートの本質は人間による定義づけ〜バイオアートからの洞察」で紹介した、石橋友也氏が手がけるアートプロジェクト〈金魚解放運動〉です。
ここで石橋氏は、同じ研究の成果を一方では研究者として研究論文の形で発表するとともに、他方ではアーティストとして研究全体をアートプロジェクトと定義し、それを作品として発表していらっしゃいます。
しかしそれらを生み出す元となった行為はまったく同じものです。

また金魚をペット化される前の野生の状態に戻す試みをアートプロジェクトと考えたのは、アーティストでもいらっしゃる石橋氏ならではの発想で、もし同じことを特にアートに関心がない研究者が思いついたとしても、それは同じプロジェクトでも生物学などの自然科学の領域のプロジェクトとみなされるでしょう。

メキシコの治安の悪い地域で、皆でお茶を飲むアートプロジェクト

もう1つ例を挙げます。先日あるギャラリストの方から以前に(残念ながら名前を聞きそびれてしまいましたが)あるアーティストがメキシコの治安の悪い地域で、地域の人々に一緒にお茶を飲むことを勧めるアートプロジェクトを試み大変な評判となったそうです。

ちなみに単にお茶を勧めるだけの行為がなぜアートなのかと言えば、その行為が治安の悪い地域で行われたため、その改善の意図およびその効果への期待がアートと認められる判断材料となったそうです。

また評判となったのは実際にそれなりの効果があったからと考えられ、その当時は恐らくアートが社会にもたらす効用の事例として盛んに紹介されたことが予想されます。

この話にその場では納得した私でしたが、後から1つ目の事例と同じような疑問が生じてきました。
治安の改善はアーティストが考える以前に、自治体や政府の職員が日頃から頭を悩ませている問題であり、したがって彼らが知恵を絞って同じことを考えついたとしても不思議はありませんし、その場合同じ行為がアート作品(パフォーマンス)とみなされることはまずないでしょう。
仮にそのアイディアが外部に委託したクリエイターによりもたらされたとしてもです。

この事例においても、行為がアートと認められる明確な要件は、行為者がそれをアートみなし、かつその定義づけを支持する人がいることのみと考えられ、これは冒頭のダントーの理論を援用すれば制度論*的な要件(に過ぎない)ということになります。

*一定の権威を有する人がアートと認めればそれはアートとみなされる、つまり定義の理由づけの内容よりも定義者の属性に根拠を求める考え方。

それでもアートの概念が拡張された今日、これらがアートであることがさほど疑問視されない理由を、冒頭で述べたように私自身の心の働きを考察する形で次のページに記載します。

アートの定義 参考文献

アーサー・C・ダントー著『ありふれたものの変容:芸術の哲学』、慶應義塾大学出版会、2017年

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