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2ページ目に引き続き、唐仁原希さんの作品とその感想です。

《過ぎ去りし日の思い出》からバルテュスの《夢見るテレーズ》を連想

唐仁原希さんの作品《過ぎ去りし日の思い出》

こちらは2017年の作品《過ぎ去りし日の思い出》です。
2ページ目で紹介した《それでもボクは。》と同様に、上半身だけが人間の生物が描かれていますが、こちらの生物の方がより奇妙な印象を受けます。

この《過ぎ去りし日の思い出》の、まだあどけない表情の少女の裸体から、以前に「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」講義メモの3ページ目で取り上げたバルテュスの《夢見るテレーズ》と、美術館からのその作品の撤去要請のことが連想されました。
《過ぎ去りし日の思い出》に描かれた少女の体の、胸の膨らみがまったくなく、かつウエストのくびれも存在しないフォルムからは、かなり幼い印象を受けたためです。

《過ぎ去りし日の思い出》と《夢見るテレーズ》は制作動機がまったく異なる

では《過ぎ去りし日の思い出》も、バルテュスの《夢見るテレーズ》と同様に、少女性愛に基づいた倫理的に問題のある作品と見なされるのでしょうか?
いえ、恐らくそうではないでしょう。

研究者によれば、バルテュスにはそのような性癖があったようですし、また《夢見るテレーズ》は隣に住んでいた娘をモデルに、ということは下着を見せるという当時は大人でさえ躊躇するような恥ずかしいポーズを取らせて描いていたことになります。

一方《過ぎ去りし日の思い出》のケースでは、まず唐仁原さんは女性ですし、またこの少女は言うまでもなく空想上の存在です。
またその空想の意図は、展示目録のステートメント*から察するに、恐らくキャラとも呼ばれる対人関係で見せる表向きの姿と、内面に隠し持った別の側面との対比、あるいは併置と考えられます。

*ステートメントには、鑑賞者が自己を投影する「鏡」のような存在に作品がなることを希望する旨のコメントが寄せられています。

もっともそれを表象するためだとしても、何も裸で描く必要はないとも考えられますが、これも善意に解釈すれば、裸になることに対してまだ羞恥心を感じないほど非常に幼い存在であることを示すためとも考えられます。
そしてそれほど幼い頃から、他人の目を気にして自分を偽ることを覚えることを、示唆したかったからとも考えられます。

また同様の視点で解釈しますと、アゲハ蝶の羽は美貌への憧れ、そしてライオンのような下半身の足がどこか可愛ゆく*見えるのは、幼い存在が有する無邪気さには成人ほどの害はないことを示唆しているとも受け取れます。

*これは誤字ではありません。「かわいい」よりも「かわゆい」の方がしっくり来る感覚です。

アート作品に文脈を無視して政治的な正しさを求める態度は、表現を著しく萎縮させる

「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」講義メモの3ページ目でも紹介しましたように、欧米ではアート作品にも政治的な正しさを求める風潮が高まって来ているようです。
しかしその判断の基準が、今回考察したような文脈を無視して、もっぱら見た目の印象だけで行われるのだとしたら、表象の在り方次第では、性にまつわる問題提起を意図した作品さえもが猥褻な作品と見なされる恐れがあります。

「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」を行なったウルリッヒ氏によれば、アート作品にも政治的な正しさを求める風潮が高まる一方で、条件反射的・感情的に反応する風潮がそれ以上に広まっているそうですので、こうした安易なレッテル貼りが生じることがないようにと、切に祈るばかりです。

「絵画のゆくえ2019 – FACE受賞作家展」展示案内

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