先週、森美術館で開催されている「ロン・ミュエク」展を鑑賞した。
連日の盛況ぶりを森美術館のメールマガジンなどで知っていたため、土日祝日を避け、勤務先の夏期休業中の平日に足を運んだ。その判断が功を奏したのか、当日の会場は比較的空いていた。作品の正面に立つだけでなく、横や背後へ回り込み、細部や人物同士の距離を確かめながら、ゆっくりと鑑賞することができた。
ロン・ミュエクの作品については、人間の皮膚や毛髪、血管まで再現した精緻な造形と、現実にはあり得ないスケールがまず注目される。しかし実際に会場で作品と向き合うと、その魅力は単なる「本物そっくり」という驚きには収まらない。目の前にいる人物が何を考え、誰との間にどのような関係を抱えているのか。作品は言葉を発しないまま、鑑賞者に他者の内面を想像させる。
性別の境界を揺らす人物像
会場を巡りながら気になったのは、女性として造形されている人物の多くが、どこか男性的にも見えたことだった。
ベッドの上で身体を起こし、遠くを見る人物。その横顔には柔らかさと同時に骨張った印象があり、表情からは性別を容易に特定できない。

黒い水着姿で壁にもたれる若い人物も、細い身体や長い脚によって少女らしさをまといながら、顔つきには少年のような硬さが残されている。
もちろん、作品の人物を男性的、あるいは女性的と分類すること自体が、鑑賞者である私の先入観に基づいている。しかし、だからこそ興味深い。ミュエクの造形は身体を極端なまでに写実的に再現しているにもかかわらず、そこから受け取る人物像は必ずしも一義的ではないからだ。
身体の情報が増えるほど、その人を理解できるようになるとは限らない。精密に作られた皮膚や髪、爪、骨格をいくら観察しても、人物の性別や感情、人生を完全に読み解くことはできない。むしろ細部が鮮明になるほど、その内面は遠ざかっていくように感じられた。
正面と背後で反転する二人の関係
とりわけ強く印象に残ったのは、若い男女が寄り添って立つ作品である。
正面から見ると、二人は互いの身体を近づけた、仲の良い恋人同士のように見える。男性は女性の方へ顔を傾け、女性もその身体を受け入れているように見えるため、親密さを表した場面として通り過ぎることもできるだろう。
ところが背後に回ると、二人の関係は異なる様相を帯び始める。
男性の手は、背中側に回された女性の手首をしっかりとつかんでいる。女性の手は力なく預けられているというより、指先まで緊張し、硬直しているように見えた。正面から感じられた親密さが、背後からは拘束や恐怖の表現へと反転するのである。
この姿から私が連想したのは、臨床心理の領域で語られる「支配―従属」の関係だった。
なお、私がここでいう「支配―従属関係」とは、人間関係のなかに生じる力の不均衡を指している。この構造については、以前、心理カウンセリングのサイトで執筆した「セクハラやパワハラにおける権力構造と理想化の心理の影響」でも詳しく考察している。
外からは親密に見える関係の内部に、一方が他方を支配する不均衡な力関係が隠されている。支配は必ずしも露骨な暴力として現れるとは限らない。保護や愛情、心配といった外観をまといながら、相手の行動や感情の自由を奪うこともある。二人の正面像と背面像の落差は、その見えにくい構造を視覚化しているように思えた。
さらに鑑賞後、撮影した写真を通して作品を正面から改めて見直すと、女性の身体の外側に下ろされた左手の指先が、不自然なほど真っ直ぐに伸ばされていることに気づいた。背後に隠された右手だけでなく、正面から見える左手にも、すでに身体の緊張は表れていたのである。
私は一人の作家として、作品をしっかり見ていたつもりだった。それにもかかわらず、会場ではこの細部を見落としていた。背後に回ったことで初めて関係の異様さに気づき、その発見に意識を奪われ、正面に示されていた別の徴候を読み取れていなかったのだ。
この見落としは、作品を見るという行為の難しさを、あらためて私に突きつけた。私たちは作品全体を均等に見ているのではない。一度ある物語を見いだすと、それを裏づける部分へ選択的に注意を向け、すでに目の前にある別の情報を見落とす。
そう考えると、この作品が表しているのは二人の関係だけではないのかもしれない。親密さの外観を前にしたとき、そこに生じている小さな異変を、見る側がいかに見過ごしてしまうか。その鑑賞者自身の視線までが、作品によって試されているように感じられた。
もちろん、作品が特定の物語や心理状態を表していると断定することはできない。男性が女性の手首をつかむ理由も、女性がどのような感情を抱いているのかも、作品の中では説明されない。しかし、その説明の欠如こそが、二人の関係を繰り返し考えさせる余白になっている。
展示された人物たちには、楽しさや喜びを率直に表す姿がほとんど見られなかった。辛さ、寂しさ、虚無感、あるいは言葉にできない不安が、沈黙する身体からにじみ出ている。そのなかでもこの二人は、感情だけでなく、人と人との間に生じる力の偏りまで具体的に感じさせる作品だった。
制作風景から感じた、作者の孤独
会場では、作品だけでなく、ミュエクの制作風景を記録した写真や映像も紹介されていた。
粘土で作られた巨大な頭部や身体。作業台の上に並ぶ動物や人間の模型。椅子に寝かされ、完成を待ついくつもの小さな身体。そこには華やかな展覧会場とは異なる、雑然として静かなアトリエの時間が写っている。
作品制作とは、多くの場合、ひとりで対象と向き合い続ける孤独な行為である。そう理解していても、楽しさや喜びの表象とは距離を置いた人物像を、表情一つ変えず淡々と作り続けるミュエクの姿を見ると、彼自身の深い孤独を感じずにはいられなかった。
彼は一体どのような気持ちで、この制作を続けているのだろう。
巨大な身体を作るときも、手のひらに載るほど小さな身体を作るときも、ミュエクは皮膚の皺や毛髪の一本一本に至るまで、長い時間をかけて他者の身体を凝視する。その作業は人間への強い関心に支えられているはずだが、同時に、どれほど精密に身体を再現しても他者の内面には到達できないという、隔たりを確認する営みにも見える。
完成した作品の圧倒的な存在感に人々が熱狂する展覧会と、沈黙のなかで人物像と向き合う制作現場。その間には非常に大きな落差があった。
展覧会場が「撮影会」になるとき
当日の会場は比較的空いていたものの、来場者の振る舞いからは、この展覧会が普段から現代美術に親しんでいる人だけでなく、幅広い層の関心を集めていることがうかがえた。
なかでも印象的だったのが、巨大な人物像などの前で、ポーズや撮影位置を何度も変えながら長時間写真を撮る人々の姿である。混雑していなかったからこそ、一人ひとりの撮影行為がかえって目に留まり、会場の一部は撮影会のような様相を呈していた。
作品を撮影すること自体を否定するつもりはない。実際、私自身も撮影した写真を見直したことで、若い女性の左手に表れた緊張に気づくことができた。写真は鑑賞の代用品であるだけでなく、会場では捉えきれなかった細部に戻り、作品を再考するための手段にもなり得る。
また、SNSに投稿された写真をきっかけに、現代美術に関心を持つ人もいるだろう。アートに接する入口は一つではない。
一方で、作品が「自分を印象的に写すための背景」になった瞬間、そこに表された人物の孤独や緊張は見えにくくなる。
ミュエクの作品は、現実離れした大きさと精巧さによって、写真の中でも強い視覚的効果を発揮する。いわゆる「インスタ映え」する作品として受け止められやすいのも理解できる。しかし、その表面的なインパクトの奥には、老い、身体、孤独、親密さ、支配といった、容易には消費できない問題が潜んでいる。
撮影という行為は、作品をよく見るための契機にも、作品を見たつもりになるための行為にもなり得る。その分岐点にあるのは、撮ったという事実ではなく、撮影後も作品から返される問いに向き合い続けるかどうかではないだろうか。
見える身体と、見落とす視線
ロン・ミュエクの作品は、身体を驚異的な精度で「見えるもの」にする。しかし、作品を見れば見るほど意識させられるのは、その身体の内側にある感情や人生の見えなさである。
中性的に見える人物たちは、外見から他者を分類しようとする視線を揺さぶる。寄り添う男女の姿は、親密さの背後に隠された力関係を想像させる。そして制作風景は、圧倒的な作品が、ひとりの作家による静かで孤独な時間から生み出されていることを伝えていた。
写実的であることは、現実をそのまま再現することではない。むしろミュエクは、身体の大きさを変え、現実以上に細部を露出させることで、普段は見過ごしている人間の脆さや関係性の歪みを浮かび上がらせている。
その一方で、どれほど多くの細部が差し出されても、鑑賞者がそのすべてを見られるわけではない。私が女性の左手を見落としたように、人は自らの関心や先入観によって、見えるもののなかから無意識に見る対象を選んでいる。
その意味で、この展覧会で問われていたのは、作品がどれほど人間らしく作られているかだけではない。私たちは目の前にいる他者の何を見て、何を見落としているのか。そして、一度見落としたものを見直すことができるのか。
ミュエクの沈黙する人物たちは、精緻な身体を通して、見る側の視線の不確かさを静かに問い続けていた。
展覧会情報
森美術館「ロン・ミュエク」
会場:森美術館(東京・六本木)
展覧会の詳細、会期、開館時間、チケット情報などは、森美術館「ロン・ミュエク」公式ページをご確認ください。