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ダンスカンパニーときかたち公演@馬喰町アートプロジェクト Beyond Facadeの感想記事。
1ページ目では企画や演出面について触れましたので、このページではパフォーマンスそのものにフォーカスします。

西洋と東洋とが呼応する動き

パフォーマンスは主に2人のダンサーによって行われましたが、最初に感じたのは2人のダンサーのタイプの違いです。
あくまで舞台芸術素人の何となくの感覚ですが、茶色の衣装のダンサーが欧米のコンテンポラリーダンスのような印象を受けたのに対して、緑色の衣装のダンサーの動きは東洋的に感じられました。
(今思ったのですが、後者の方に東洋を感じたのは、どこか忍者のような雰囲気を感じ取ってのことだったように思えます。)

この対照的な雰囲気の2人が、一方が動いている間、他方は静止する形で呼応していました。

ホシノメグミさんの動きにアウェアネスの高さを感じる

また個人的には茶色の衣装のダンサーの動きに特に惹かれました。
調べてみるとホシノメグミさんと仰る舞踏家/ダンサーでしたが、ホシノさんのパフォーマンスからは素人目にも身体の隅々まで意識が行き届いているように感じられました。

もっともこれは身体のコントロールというよりも身体への気づき、つまりアウェアネスの高さを感じさせるものでした。

また一番驚いたのは、激しい動きの際の足音の静けさです。ですので動きがとても「軽やか」に感じられました。

ホシノさんは以上のように高度なアウェアネスに基づく繊細な動きだけでなく、ダイナミックな動きにも長けた、幅広い表現ができる方との印象を受けました。

動きの源流への関心

最後にお二方のパフォーマンスを見ながら「この動きはどこから生じているのだろう」ということが気になっていました。
具体的には何かをイメージし、そのイメージを具現化しているのか、それとも身体感覚に従って動きが生じているのか、という点についてです。

ホリスティックな「出会い」の感覚

これらの点に関してホシノさんのウェブサイトを拝見すると、次のような記述を見つけました。

外界が身体に触れる一瞬一瞬から立ち現れる肉体の細やかな表情を感じながら、

ここで注目すべきは「身体が外界に触れる」ではなく「外界が身体に触れる」となっている点です。

これは私の実感では、前者はデカルト由来の近代科学の「心が身体を所有している」旨の心身二元論の考え方が反映されたものであり、具体的にはその心が身体をどのように操作したのかという状況説明を意図した、したがって思考優位の状態からもたらされた言い回しのように思えます。

それに対して後者は、前述の二元論的な発想からすれば「心が身体に同一化」した状態と見なされるのでしょうが、東洋のホリスティックな思想からすれば心と体は最初から一体のものであり、したがってその全体としての「私」が外界と触れ合う瞬間の描写と考えられます。

そしてここでの身体は心の所有物などではなく「私そのもの」とも言えるため、その私と外界とが触れ合う瞬間の知覚を言語化しようとすれば、身体感覚などの言葉を充てるしかありません。
この言葉自体すでに心身二元論的な色合いを帯びていますが、ホリスティックな世界を言語化するのは非常に困難なのです。

以上の考察から、前述の引用文から察するに(無理やり言葉を充てるなら)身体感覚に基づき動きが生じている可能性が高そうですが、昨日のパフォーマンスでは何かがイメージされているような素振りも見受けられました
したがって恐らくは身体感覚とイメージ(=空想)の両方が、その時々によって作用していたのではないかと考えられます。

ダンスカンパニーときかたち ウェブサイト
ホシノメグミ ウェブサイト

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