中筋朋著『フランス演劇にみるボディワークの萌芽―「演技」から「表現」へ』

鑑賞者による生命力や神秘性などの投影を可能とする、リアルな人形の不在性

前回「作家が写された映像がもたらすプレゼンスと不在の感覚〜諸岡亜侑未「Dig up and Build」を例に」の中で、展示会場内の作家が写された映像が、鑑賞者の事情によって、作家の不在を感じさせるものにも、存在を感じさせるものにもなり得ることを考察しましたが、この中の「不在」に関する興味深い理念が、以前に紹介した『フランス演劇にみるボディワークの萌芽』に掲載されていました。
それはマリオネット(人形)に関するものです。

鑑賞者による生命力の投影を可能とするリアルな人形

『フランス演劇にみるボディワークの萌芽』の第4章では「変容にさらされる俳優像」と題して、フランスにおける舞台俳優の理想像の変遷が紹介されていますが、19世紀末から20世紀初頭にかけて理想とされたのがマリオネット(人形)でした。

まず当時マリオネットがどのように理想視されていたのかを示す部分を、いくつか引用致します。

「人形劇が子どもっぽいものではなく、むしろより精神的なものを示しうるものとして捉えられたのが、19世紀末の人々がマリオネットへ寄せた興味の特徴である」(P.133)

「その単純さゆえに、マリオネットが人間の俳優よりも神秘的な情景を効果的に表現できると考えられている。」(P.134)

「人間の存在感が劇の妨げになると考え、別のものを舞台に導入しようとするとき、メーテルランクが参照しようとするのが、この蝋人形を前にしたときの奇妙な感覚なのである。」
「ここでメーテルランクが蝋人形を前にしたときの感覚を「奇妙な印象」としているのは、それが「命を持たずに命があるような見かけを持つ」ためだと考えられる」(P.136-137)

古代の人々は、人形のような無機物にも生物と同じく命、というよりも魂が宿っていると信じていたと考えられています。
このような思想はアニミズムと呼ばれますが、ここに引用した言説は最後のメーテルランクの考えに示されているように、アニミズムとは異なり、命が宿っていないにも関わらず、まるで生きているように見えるという感覚です。

このような思考と感覚とのズレは、精神分析では投影という概念で理解されています。
投影とは、対象から連想された事柄(=空想)をその対象に無自覚に重ねることで、対象がその空想内容を本当に有しているかのように錯覚する心理です。

神秘的な印象は空想の投影により生じる

さらに2つめの引用文では、人形が生きているかのような錯覚をもたらすだけでなく、人間の俳優以上に神秘的な印象を抱かせることが述べられています。
これは神秘性というものが非現実的な性質を有しており、そのような性質は当然ながら現実ではなく空想によってもたらされるためと考えられます。

以上のように、蝋人形のようなリアルな印象を抱かせる人形は、そのリアルさゆえに鑑賞者の心にまるで生きているかのような錯覚を生じさせると同時に、本当の人間ではないことが空想内容の投影を容易にし、その結果非現実的とも言える神秘的な印象を抱かせるのではないかと考えられます。

一方、人間の俳優はリアルさでは当然人形に引けをとらないはずですが、神秘性の表現では人形に劣ると判断されてしまったのは、生身の人間が有する圧倒的なリアルさゆえのことと考えられます。
これは人間というものが、生命力のみならず意思さえも有する主体的な存在であるため、人形ほど簡単には空想の投影を許さないためです。

人形は主体が不在であるがゆえにファンタジーの投影を許す

またこの神秘性を「プレゼンス-不在」の観点から考えると、主体的な存在である人間のプレゼンスが空想の投影を妨げることで、その印象を著しく阻んでしまうのに対して、主体が欠落しているという点で不在と言える人形にはそのような障壁は存在しないため、鑑賞者による空想の自由な投影を可能とし、その結果神秘的な印象の源泉となる、尽きることのないファンタジーの投影が生じるのではないかと考えられます。

引用文献

中筋朋著『フランス演劇にみるボディワークの萌芽―「演技」から「表現」へ』、世界思想社、2015年

中筋朋著『フランス演劇にみるボディワークの萌芽―「演技」から「表現」へ』
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