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鑑賞から体験へ、作品から装置へ

何やら意味深な記事のタイトルですが、ここ最近の私の関心の変化を示すフレーズです。

来場者の体験そのものへと関心が移ってきた

2015年の京都造形芸術大学の通信課程への入学、および同じ時期のアーティストランのArt Trace Galleryへの参加を契機として、私の作品作りはそれまでの感性に頼りがちだったものから、考えながら制作する、つまりコンセプト重視のものへと大きく変化しました。
そしてその思考内容の中でも大きな比重を占めていたのが、関係性とも称される、作品と鑑賞者そして制作者である私との間で生じている事柄でした。

ところがその関心がここ最近、作品の鑑賞者がその場で経験するであろう事柄に集中するようになってきました。
つまり体験そのものへと関心が移ってきたのです。

もっとも鑑賞も鑑賞体験と言われることがあるように体験の一形態ですので、ここでの意味合いは作品の鑑賞というある種の制約に囚われることなく考えを巡らせるようになった、つまり拡張ということです。

ワークショップには今のところ関心がない

なお体験ということでは、アートの現場ではワークショップも単独あるいは作品展示の関連イベントとして盛んに行われるようになってきていますが、ワークショップに関しては今のところあまり関心はありません。

なぜならワークショップとは、私の理解ではファシリテーターが存在し、その人に促される形で参加者が何かを行うものと考えられますが、私が関心があるのはファシリテーターが存在しない空間において来場者が体験する事柄であるためです。

補足)この私の関心には、次の4つの記事にも表れているように、現代はコミュニケーション不足ではなく、むしろ過剰であるとの考えが多分に影響をしていると思われます。

体験がストレス発散のために大量消費される時代、内的な対話を促す芸術作品を一人でじっくりと鑑賞する機会は貴重
現代はコミュニケーションに過剰な価値が置かれ、孤独であることが即問題視される
私説:独りでいると孤独感を感じるのは近代以降の人間の特徴
私説:メディアなどから発信されるコミュニティ作りの成功事例は鵜呑みにすべきではない

制作物が作品であることの必然性も薄れてきている

また来場者の体験一般へと関心が拡張された結果、鑑賞の対象であった作品についてもその必然性が薄れ、そのため会場に設置されるものの位置付けも作品というよりも体験を生み出す装置のように捉えるようになってきました。

もっとも現代アートの世界では、その装置も作品と見なされることで、作品の概念が日々拡張されているのも事実でしょうから、従来の作品の概念にあまりこだわらなくなってきたというのがより正確な表現かもしれません。

最後に、これまで述べてきたことはすべて思考、つまり頭の中で展開される空想に過ぎません。
しかしそれを実現する場は、何でも自分の思い通りになるとは(全然)限らない現実の世界です。
ですからこれまで述べてきた願望との間に様々な葛藤が生じることとなり、したがって今すぐにでも用いるメディウムなどに大きな変化が起きるということにはならなさそうです。

次回はこの葛藤の中から生じてきた(写真の)フォーマリズムに関する新たな知見を記事にする予定です。

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