NO IMAGE

ART TRACE GALLERY「カナタのてざわり」の感想記事。
1ページ目にはコヤマイッセーさんの展示作品とステートメントの感想、2ページ目には同じくイッセーさんのステートメントをメルロー=ポンティの身体論により再解釈したものを掲載しました。

続くこのページには、イッセーさんの展示スペースの右側に設置されていた、写真家の長谷川美祈さんの作品の感想を掲載します。
ただし不覚にも作業ミスで撮影データを消去してしまいました(次頁以降に掲載する橋本佐枝子さんと馬貝塚喜康さんについても同様です)。

3ページめ目次:
普段の社会的なテーマとは異なり、今回は私写真を発表
極めてプライベートな私写真を作品として発表することと「作家性」との関連

普段の社会的なテーマとは異なり、今回は私写真を発表

長谷川美祈(はせがわみき)さんは、普段は児童虐待などの社会的なテーマを取り上げた作品を制作、またメディアについてもプリントよりも写真集の形態を重視されている作家さんのようですが、今回の展示作品は亡くなったご家族をテーマとした私写真と呼ばれるジャンルのものでした。
詳しい経緯は定かではありませんが、当初は非公開の予定だったものを、今回の展示に合わせて発表することにされたそうです。

正直なところ、亡くなった家族や友人をテーマとした私写真は、日本ではあまりに多くの写真家が作品化してしているためか、今ではそのような写真を目にした瞬間、食傷気味の感覚に陥るようになってしまいました。

このため私には、長谷川さんの今回の作品と冷静に対峙することは恐らく不可能であることから、今回は作品そのものではなく、展示に関わる行為について考察することにしました。

極めてプライベートな私写真を作品として発表することと「作家性」との関連

このような観点から私がもっとも興味を惹かれたのは、もともと非公開の予定だった写真を作品として発表することにした点です。

この話を聞いて、非公開の予定だった写真、および家族や身近な人の死という極めてプライベートな私写真を作品として発表することは、作家としてどのような意味を持つのかという、いわゆる作家性の観点に関心が及びました。

駆け出しの頃は、ハラハラドキドキで作品を発表するということを意識せざるを得ない状態だったとしても、展示の経験を重ねるうちに、いつしかそのような感情は薄れてしまうため、よほど意識しない限りは良くも悪くもルーティン化してしまいがちです。

以上のように、今回は私自身、久しぶりに作家性について今一度考える貴重な機会となりました。

ART TRACE GALLERY「カナタのてざわり」公式ページ

NO IMAGE
最新情報をチェック!