今回は森美術館で開催中の「カタストロフと美術のちから」展に関する記事です。
「カタストロフと美術のちから」展のオノ氏の作品において、来場者の書き込み内容に制限が加えられる
1ヶ月以上前の話ですが、ある芸術セミナーで「カタストロフと美術のちから」展を鑑賞した上で、現代におけるカタストロフの表象不可能性と想像可能性について考える事前課題が与えられ、その作成された各自のレポートに対して講師の方からコメントをいただく機会がありました。
その際、セミナー参加者の方から同展示に関して気になる情報が伝えられました。
それは展示の目玉作品でもある、オノ・ヨーコ氏の作品についてのものでした。
オノ氏の作品『色を加えるペインティング(難民船)』は、会場を訪れた人が自由にメッセージなどを書き入れることができる鑑賞者参加型のアート作品で、展示チラシのメインビジュアルとしても使われています。
この書き込みが上述のセミナー参加者の話を総合すると、初日は自由な書き込みが可能であったのに対して、ある時からスタッフから「ピースフルなメッセージをお願いします」旨の注文が入るようになったとのことです。
またその要因は、ピースフルとは真逆なものや、あるいはピースフルとまったく無関係な書き込みをする人が少なからずいたからということのようでした。
当初は作品への不当な介入と勘違い
当初この話を聞いた時は、展示サイドの詳しい事情を知らなかったため、そのようなスタッフの介入は作品への不当な介入なのではないのか、その行為はオノ氏の許可を得ているのか、などと批判的な考えを思い浮かべました。
しかし後日届いた展示カタログを拝見したところ、私の批判は誤りであることが分かりました。
オノ氏の期待は、作品に平和への願いを書いてもらうこと
展示カタログには、オノ氏の作品説明として次のように記載されています。
ヨーロッパを目指すシリア難民の多くが訪れたギリシャで発表されたもの。観客はクレヨンを使って展示室の壁や床、そして難民船を思わせる船のどこにでも、平和への願いを書くことができる。
この文章から察するに、オノ氏の願いは作品『色を加えるペインティング(難民船)』を通じて、鑑賞者(というよりも体験者、あるいは単に来場者)が難民の方々の過酷な状況に思いを馳せ、その思いから生じたメッセージが次々と作品に書き込まれることで多くの方に共有されて行くことを期待するものだったのではないかと推測されます。
日本人の他者の苦しみへの無関心や共感性の欠如を露わにした出来事
しかしそれにも関わらず日本の展示では、そのオノ氏の願いを汲み取ることなく、あるいは汲み取ってもなお、難民問題に無関心であるがゆえに、そのテーマとはまったく無関係な個人的書き込みや、あるいは反平和的なメッセージの書き込みが後を立たなかったため、見るに見かねた展示関係者が介入という実力行使に出たのではないかと考えられます。
したがってこの出来事は、日本人の身の回りのことにしか関心がない自閉性や、他者の苦しみへの無関心(共感能力の欠如)を曝け出した、恥ずべき体験の1つでもあったのではないかと考えられます。
しかしそれでもなお、表現の自由が過剰なまでに尊重される日本では、来場者の書き込みに制限を加えることに対しては、その来場者の表現の自由を奪う行為として問題視する動きが生じてもおかしくないように思えます。
そこでこのテーマを倫理的な観点からは「西洋的芸術概念とその解体 ——— 現代アート世界の観察報告」講義メモの2ページ目以降に、また倫理的な観点は脇に置きニュートラルな立場からは『パフォーマンスの美学』を援用しつつ別途記事にする予定です。
(作成できたら、こちらからもリンクを貼ります)