大野佐紀子著『アート・ヒステリー』

私説:戦後日本の(美術)教育で求められてきたのは民主主義ではなく、汚れなき楽園のような社会ではないのか

前回の記事「ARCOT2018感想〜総じてメッセージが分かりやすかったコロンビアのアーティストの作品」を書いていた時に、コロンビアの美術教育と比較する形で、私自身の高校時代の美術の時間のことを思い出していました。

高校の美術では描き方を教わった覚えがない…

覚えている限り、当時の授業で行われたのは次の2つでした。
・好きな名画を選び、それを模写する
・自画像

いずれも油絵でしたが、覚えている限り、美術教師の方から教わったのは、主に油絵の具の扱い方のみで、描き方の方は教わった覚えがなく「自由に描いて良い」と言われた気がします。
そのため我流で描いても上手く描けず、好きだったはずの美術の時間が徐々につまらなくなっていった覚えがあります…

子どもの自然な本性を何よりも大切にする日本の美術教育

このように私が経験した北海道の片田舎の高校の美術教育とコロンビアの美術教育のあり方には非常に大きな違いがありますが、その要因として以前に旧サイトでも紹介した『アート・ヒステリー』の記述が思い出されます。

フィリップ・アリエスの『子供の誕生 アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』によれば、「子ども」を独自の存在と見做し大人と明確に区別し、特別の愛情と教育の対象とする見方は、主として西欧の近代社会で形成されました。
その流れの中から生まれきた、子どもの自然な本性を大切にし「個性」と「自由」を尊重する教育観は、戦前の日本の文学者や芸術家たちに刺激を与え、戦後民主主義の学校教育の理念となり、中でもとりわけ美術科目に深く根付いています。(同書 P.106)

もしこのような戦後民主主義の学校教育の理念がその後も続いているのだとすれば「好きなように自由に描いて良い」と言われたのも納得がいきます。
もっともそれでは模写にならない気はしますが…

またそれが学校教育の理念だとしても、高校になっても、まったく同じ方針を貫かねばならないものなのかとも思います。

人間は完璧な存在として生まれ、大人になるにしたがい心を病んでいくという思想

なお、子どもの自然な本性を大切にする精神は、我が国では臨床心理の場においてもまったく同様です。

心理療法は主要なものだけでも数十種類もありますが、日本では私の所属する日本産業カウンセラー協会をはじめ、ほとんどの組織においてカール・ロジャーズの創始したクライエント中心療法の習得をトレーニングの中心に据え、他の心理療法は付属的な扱いを受けています。

このクライエント中心療法の人間観は、人間は生まれた瞬間がもっとも完璧な心の状態(自己一致した状態)であり、その後大人になるにしたがい社会適応の圧力を受けて、徐々に自分らしさを失い病んでいく(自己不一致の状態に陥る)というものです。

求められているのは民主主義ではなく楽園のような社会

このように日本では子どもの心性を理想視する思想が至る所に見られますが、その思想は幾つになっても社会の色に一切染まることのない純真無垢で汚れを知らないような心の持ち主が、ビジネス以外の場では賞賛されさえすることがあるように、それは民主主義に基づいたものというよりも、むしろモラトリアムの手前で止まり続ける「永遠の少年」像への憧れの気持ちが反映されたもののように思えます。

なぜなら民主主義とは、成熟した自我を有する大人が主体的かつ積極的に社会と関わるものであり、純真無垢な心とは相容れないもののように思えるからです。
この点は著者の大野佐紀子さんも次のように指摘されています。

「個性」や「自由」という言葉も使われ過ぎて時として軽く響くようになりましたが、もともとは西欧では血なまぐさい歴史を積み重ね、非常に長い時間をかけて培われてきた概念です。

このため戦後から続いてきた「子どもの自然な本性を大切にする」旨の価値観に基づく(美術)教育に携わる方が求めているのは、心の清らかな人々のみが暮らす楽園のような社会なのではないかと私は考えています。

また主義ということなら、それはクライエント中心療法もカテゴライズされているヒューマニズムではないかと考えられます。

引用文献

大野左紀子著『アート・ヒステリー~なんでもかんでもアートな国・ニッポン』、河出書房新社、2012年

大野佐紀子著『アート・ヒステリー』
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