ベンヤミンのアウラ論形成に影響を与えたと推測される近代の要因
アウラ論が生じるに至った、言葉を変えればベンヤミンの思考に影響を与えたと推測される要因は、主に近代に生じた次のような事象です。
・これまでのページでも述べたように、個人の「知的財産権」という考えが生まれた
・「ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』感想2~カメラの完璧な写実性を前提とした芸術論」でも指摘した、写真の写実性に対する過大評価
・キリスト教の権威の失墜とともに生じた、近代科学に基づく客観的思考の普及
「オリジナル」とは客観的思考に基づいた発想
ベンヤミンはアウラという概念に象徴される〈いまーここ〉的性質や真正さを、オリジナルの作品のみが有する性質としていますが、このオリジナルという概念自体、そもそも近代科学に基づく客観的思考の表れと考えられます。
なぜなら、これは「私が本物だと信じれば、それは実際に本物になる」ということではなく、その根拠を示す必要がある概念であるためです。
恐らくこのような思考法は、中世以前は希薄であったと考えられます。
例えばキリスト教の神は、この世の全てを司る万能的な存在と信じられていましたが、その根拠を具体的に示す必要はありませんでした。
ただ、そう信じさえすれば、それでもう十分だったのです。
完璧な写実性を備えた写真の登場により、オリジナルの芸術作品が駆逐されるという発想
加えてベンヤミンがアウラの衰退に決定的な影響を及ぼしたと考えている写真についても、その写実性の評価が絵画や版画などと比較したものであったことから、今日の写真よりも遥かに不鮮明な画質であるにもかかわらず、当時は現実をそのまま忠実に写し取るメディアと信じられ、その性質が過大評価されたと考えられます。
そしてこの写真の写実性に関する過大評価が、オリジナルと複製品との境を消滅させ、かつこの世はいずれ複製品に蹂躙されるとの憶測を生み、それゆえ今日(現在から見れば近代)の芸術作品には、もはやアウラは期待できない旨の考えに至ったのではないかと推測されます。
アウラ論は現在は失われてしまった要素を過去の時代に求める心性の投影の産物
また上述の幻滅感が、写真に基づく完璧な複製技術が登場する以前の、古代や中世の芸術作品への別の意味での理想化をもたらし、それらの時代の芸術作品に対してアウラという特別な性質が付与されるに至ったのではないかというのが私の見解です。
ですからベンヤミンのアウラ論には、個人的に現在は失われてしまった要素を過去の時代に求める心性が投影されているように思えます。
近代ならではの(無条件の)進歩的価値観の表れ
もっとも彼の論述からは、アウラが失われてしまった現在の芸術作品を嘆き悲しむのではなく、むしろ新しい時代の様式して進歩的に捉えていることが伺えますが、これなども近代という時代ならではの科学技術の発達などに後押しされた(無条件の)進歩的価値観の影響が感じられます。
また論文がマルクスの資本論の話から始められ、革命という言葉が多用されている点も、社会主義を理想視していた、やはりこの時代ならではの思想だと思います。