『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味』

私説:アウラと関連づけられるのは芸術作品の礼拝価値ではなく展示価値の方であり、複製技術の進展とも相関性の低い概念

作品のオリジナル性を重要視するようになったのは近代以降では?

ベンヤミンが考えるアウラという概念は、オリジナルの芸術作品のみが有する〈いまーここ〉的性質や真正さですが、このアウラを有する典型的な芸術作品として、彼は古代の儀式で用いられていた造形物を想定しています。
ですがこのベンヤミンの考えがイマイチ腑に落ちません。

例えば古代の人々は、ある動物の格好をすれば、その動物が宿している力を手に入れることができると考え、その動物の毛皮を身につけたり、あるいはその動物に似せた造形物を被ったりしていたようです。
このように動物の力を得るためには、本物の動物の一部を身につける必要は必ずしもなく、それはその動物に見えされすれば何でも良かったようです。

このように古代の人々がアバウトな感覚なのは、当時の人々が主観と客観の区別が存在しない、今日の科学的な思考からすれば極めて非合理的な世界観の中で生きていたためと考えられます。
ですから、ここで効力を有しているのは物の属性よりも、信じる心の方なのです。

また時代を少し後に移しキリスト教の信仰について考えてみますと、宗派によっては家にキリストや聖母マリアなどの像が置かれいたと思いますが、それらの品々が一点ものではなく量産品であったとしてもなお、信者の方にとっては信仰の対象、つまり礼拝価値を有するものと認識されているでしょう。
ここでも対象物のオリジナル性は、ほとんど価値を認められていません。

さらに放送大学の「人類文化の現在:人類学研究」という科目のテレビ講義で、興味深い事例が紹介されていました。
中米のある地域では、ある陶芸家の作品が人気を博すと、金儲けのために自分が作った作品をその人が作ったものとして売り出すことが日常的に行われ、さらにその勝手に名前を使われた人からクレームをつけられることもないそうです。
このような事態になっているのも、その地域では知的財産権をはじめとした個人の権利が確立されていないためです。

アウラと関連づけられるのは芸術作品の礼拝価値ではなく、むしろ近代に生じた展示価値の方

以上のような事例から想定されるのは、ベンヤミンの考えるアウラが有する性質自体、近代以降に重視されるようになったものということです。
つまり作品あるいは造形物のオリジナル性に高い価値を置いていたのは古代の人々ではなく、むしろ近代以降の人々の「こだわり」であるということです。

私の理解では、作品のオリジナル性が重視されるのは、自己(私という感覚)が明確に確立し、その結果自己と他者との境界も明確に意識されるようになり、それらの変化の流れの中で知的財産権をはじめとした個人の権利や所有の概念が強く意識されるようになった19世紀(近代)以降の特に西洋社会においてです。

また別の側面で言えば、それは造形物を芸術作品とみなし、それを鑑賞したり、あるいは所有したりするようになって初めて価値を持つ概念です。

以上の考察から、ベンヤミンの想定したアウラと関連づけられるのは芸術作品の礼拝価値ではなく、むしろ近代以降に認識されるようになった展示価値の方であると考えられます。

アウラは複製技術の進展との相関性も低い

また、だとすればアウラの概念はベンヤミンが想定したように複製技術の進展とトレードオフの関係にあるのではなく、両者にはそれほど相関性はないものと考えられます。

要約

最後に要約です。
ベンヤミンが想定したアウラとは、造形物を芸術作品と認識して展示・鑑賞することで初めて価値を持つものであり、中世以前の造形物に対して礼拝価値しか認識していなかった時代には価値を持たない概念と考えられます。

このため仮に中世以前の造形物からアウラが感じられたとしても、それは礼拝ではなく、芸術作品として鑑賞する態度からもたらされたものであることから、同概念は礼拝価値よりも展示価値との関係が深いものと考えられます。

追伸)今回の記事に関して、その後アウラ論が生じるに至る要因についての仮説が思い浮かびましたので、その考えを次ページに追記します。

『ベンヤミン・コレクション〈1〉近代の意味』
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