写真家 田尻健二のウェブサイト(Ver.3)。撮影した写真・展示情報・写真をはじめとしたアート情報などを掲載。今後の展示予定:2018年8月9日〜10月末(予定) NEW JAPAN PHOTO at HOTEL THE KNOT Shinjuku、11月12日〜11月18日 トキアートスペース 個展「症状の肖像」

東京国立近代美術館「ゴードン・マッタ=クラーク展」感想

このページでは、マッタ=クラークが錬金術に傾倒していたことから、1ページ目で感想を述べた『サーカスまたはカリビアン・オレンジ』を例に、作品への影響を考察してみたいと思います。

ユングの錬金術論

2ページ目で援用した展示カタログの平野千枝子氏の文章によれば、マッタ=クラークは中世の錬金術に傾倒し、特にユングの『心理学と錬金術』を熱心に読んでいたようです。
ただユングの思想はアート業界ではフロイトやラカンほど重視されていないようですので、まずはユングの錬金術論について簡単に触れておきます。

非合理的な思考パターン

錬金術は、一般的には鉄や鉛などの卑金属から金を生み出す研究と考えられていると思いますが、ユングは一部の錬金術師はその試みを通して心の変容をも念頭に置いていたと想定し、後者の研究に没頭して行きました。
その研究成果は、マッタ=クラークが愛読した『心理学と錬金術』をはじめ『転移の心理学』『結合の神秘』など晩年の著書にまとめられています。

ユングの解釈では、卑金属から金を生み出す錬金術の一連の化学反応のプロセスは、キリスト教の誤った解釈から生まれた「善ー悪」二元論により引き裂かれた事象を、元の一体化された状態へと統合する作用を象徴していると想定されています。

さらにその一体化が達成された状態では、西洋の神秘主義思想や東洋のタオ、禅などの思想と同様に、今日の私たちが合理的と考える科学的思想とはかけ離れた世界観で支配されたものとユングは考えました。
それは例えば、私たち人間は一個人であると同時に宇宙全体でもあり、また全てであると同時に無でもあるというように、互いに相矛盾するはずの概念が違和感なく並置されているような世界観です。

物理的な変化に喩えられた、物質的なものと精神的なもの全ての変容

また錬金術の一連のプロセスは、物質の化学変化や、あるいは神秘的な書物では精神的な事柄の変化として記述されていますが、それらはいずれも比喩であり、ユングによれば錬金術における変化とは、前述のように全てが渾然一体となった、つまり物質的なものと精神的なものとに分割できない状態の変化を扱ったものです。

造形論や如何なる批評理論をもってしても説明不十分な『サーカスまたはカリビアン・オレンジ』他の作品

以上のようにマッタ=クラークが傾倒した錬金術の世界とは、近代に確立し今日でも常識として機能し続けている合理的思考とは全く相容れない性質のものです。
このため彼の作品を深く理解しようと思えば、ユングが神話的思考と名づけた現代人からすればあまりに非合理的な思考パターンを身につける必要があり、したがって近代以降に登場した造形論や如何なる批評理論をもってしても彼の作品の解釈には不十分であると私自身は考えています。

例えば切断をテーマとした最後の作品となった『サーカスまたはカリビアン・オレンジ』についても、展示カタログには彼の意図として「錬金術のモティーフのように建物を上下に拡張したかった」との記述があります。
ですがこの記述を元に『サーカスまたはカリビアン・オレンジ』を改めて目にした場合、そこで連想されるのは、作品の視覚的なイメージから感じられる物質的な上下の動きか、もしくはもう少し想像力を働かせて気分などの心理的な変化のいずれかではないでしょうか。

しかし既述のように、物質的なもの、精神的なもの、そのいずれもが既に「二分法」に基づく思考であり、錬金術の世界で想定されている全体性が失われてしまっています。
このように物質的なものと精神的なものとを明確に区別し、また自己(自分)と対象(自分以外の何か)とを明確に区別する科学的思考に慣れ親しんでしまっている私を含めた現代人にとって、マッタ=クラークのようなスピリチュアルな思想に基づくアーティストの作品を理解するのは簡単なことではないというのが私の考えです。

参考文献

C.G. ユング著『心理学と錬金術』、人文書院

次のページでは補足的な内容として、マッタ=クラークのアーティスト活動は多岐に渡っていたにもかかわらず、アーティストをその典型として、多くの人の関心が切断をテーマとした作品に集中している点について考察します。

C.G. ユング著『心理学と錬金術』、人文書院




写真家 田尻健二
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