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シェイラ・デ=ラ=クルス《脱歴史化する》@「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想

Diversity vol.2」の枠内で行われたTakaaki Kumagai氏キュレーション「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想記事その3。
アンドレス=フェリペ・キンテロ氏に続いて紹介するのは、シェイラ・デ=ラ=クルス氏のコラージュ作品です。

今回の参加作家の大多数はコロンビア在住の方ですが、クルス氏はペルーの首都リマ在住の方です。

シェイラ・デ=ラ=クルス氏のコラージュ作品《脱歴史化する》の概要

こちらがクルス氏のコラージュ作品《脱歴史化する》(Sheila de la Cruz “Deshistorizar”)です。

シェイラ・デ=ラ=クルス氏のコラージュ作品《脱歴史化する》(Sheila de la Cruz “Deshistorizar”)

ペルーの因習化した社会構造を脱歴史化(=民主化)

展示カタログに掲載された、キュレーターのKumagai氏の批評によれば、ペルーをはじめとしたラテンアメリカ諸国では、マジョリティの間で未だに西欧中心主義的な社会的・宗教的価値観が維持されていると同時に、それ以外の文化圏に属する人々が社会的に無視される傾向があり、これが両者の政治的対立やテロが蔓延する大きな要因となっているとのことです。

クルス氏の《脱歴史化する》は、これらの現状に鑑み、西欧中心主義的な価値観の1つの象徴としてスペインの統治下にあった時代に描かれたキリスト教絵画を取り上げ、これに現代のペルーの社会的暴力をコラージュで重ね合わせることで、因習化した社会構造の脱歴史化(=民主化)を試みるものです。

また伝統的な西洋絵画の視点からはバランスを欠いた構図や、ラフな印象を与えるプリントや展示の仕方なども、宗教画に求められる荘厳さを切り崩す方策であり、この行為にもクルス氏の因習化した社会構造の脱歴史化(=民主化)の願いが込められているものと考えられます。

既存の慣習を変化させるという共通点

このクルス氏の《脱歴史化する》を拝見して、私自身が作品コンセプトにしばしば用いる既存の慣習を変化させるという試みと共通点があるように思えました。

しかし考察対象や当事者意識の有無は大きく異なる

但し両者には、決定的とも言える違いがあります。
同じ「Diversity vol.2」の枠内で開催した個展「価値あるいは意味」もその1つですが、私の場合その多くはアート・ワールドという、ごくごく狭い世界の慣習を対象としたものです。
今回の個展の例で言えば、固有のコンセプトに基づき制作されたオリジナルの作品に高い価値が与えられるという慣習です。

対してクルス氏が作品で脱歴史化を試みたのは、国民全体が当事者であるような、もっと身近で広範囲に影響力を持つ慣習です。

違いはこれだけではありません。今回の私の個展の、オリジナル作品の価値に疑問を呈する試みは、そのことに対して前々から疑問を感じてはいましたが、どうしても納得が行かないと言えるほどの強い思いではありません。
むしろそのような既存の価値観が曖昧になるような試みを行うと、どのような反応が得られるか?という興味が出発点でした。

対してクルス氏が《脱歴史化する》で扱ったテーマは、恐らく日々の生活と密接に関連したものであり、したがってその作品制作には私の例よりも切実な思いが込めれていても不思議はないように思えます。

当事者意識の有無は、作品の強度その他に少なからず影響を与えるはず

つまりクルス氏の《脱歴史化する》は強い当事者意識から生まれた可能性があるのに対して、私の「価値あるいは意味」は、物理的には当事者と言えても、扱った慣習に特に苦しめられているわけもないので、その慣習を自分とは切り離された考察対象して、かなり冷めた態度で眺めていたように思えます。

この両者の意識の違いは、作品の強度その他に影響を与えることは想像に難くないでしょう。

但しこの当事者意識が作品にもたらす影響を感じ取る感性は、総じて極度に知性化*が進行しているアート・ワールドでは多分に麻痺しており、したがってこの有無を感じ取る能力はアート・ワールド外の人々の方が高いのではないかと推測されます。
つまりクルス氏の《脱歴史化する》は、一般の方々にも作品に込められたメッセージが伝わりやすいのではないかと考えられます。

*ここでの知性化とは、精神分析用語で、思考偏重で感情が麻痺したような状態となる防衛機制のことを指します。

参考文献

「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」展示カタログ

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