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カミロ・クエルボ《場所#1》@「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想

Takaaki Kumagai氏キュレーション「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想記事その7。
ミア・シアバット氏に続いて紹介するのは、カミロ・クエルボ氏の版画作品です。

カミロ・クエルボの版画作品《場所#1》の概要

こちらがクエルボ氏の版画作品《場所#1》(Camilo Cuervo “Lugar #1”)です(クリックで拡大)。
なお技法は多色刷り木版です。

カミロ・クエルボの版画作品《場所#1》(Camilo Cuervo "Lugar #1")

展示カタログに掲載されたキュレーターのKumagai氏の批評によれば、《場所#1》はフランスの人類学者マルク・オジェの「非-場所」の概念を援用し、「物理的にはそこに留まり生を営むことができるにも関わらず、様々な社会的通念により滞留が許容されない、一時的な待機やトランジットのみが可能な場所について注意を促す」ものとのことです。

そしてその実情を「座ることを促しながらも、長居することは拒否する」電気椅子でもって表象している作品のようです。

マルク・オジェの「非-場所」の概念とは

私はオジェの「非-場所」の概念を知らなかったため調べてみると、これは現代社会における多くの空間が、伝統や個々人のアイデンティティとは無縁の、匿名性を帯びた存在であることを指摘したもののようです。
私見ですが、この概念は写真家の港千尋氏も指摘している「世界中の大都市の均質化」とも関連しているように思えます。均質化とは没個性を意味しているためです。

過酷な超自我と自我との葛藤を表象する電気椅子

私がオジェの「非-場所」の概念と、その概念が援用された《場所#1》から感じたことは、この長居が許されない状況というのは、人によっては望まれた環境でもあるということです。
これは少なくても日本では、少し前から仕事場を一ヶ所に構えないノマドワーカーが増えていると同時に、最近では若い人を中心に、住まいさえ一ヶ所に定めない生活スタイルを志向する人も増えているためです。

しかしその後者のような人々も常に移動し続けているわけではなく、一時的には同じ場所に留まっていることから、定住あるいは長期滞在では居心地が悪いだけで、実は居心地が良い場所を求めての行為なのかもしれません。

このため仮にこの日本の実情を《場所#1》に当てはめてみると、電気椅子が社会構造とは別に、定住と移動のいずれにも居心地の悪さを感じ、その間のある最適解を追い求めて葛藤し続ける個人の精神内界を表象しているようにも思えました。
処刑の道具である電気椅子を心の働きと結びつけるのは極端な発想かもしれませんが、これはフロイトの流れを汲む古典的な精神分析による心の構造論では、過酷な超自我と呼ばれる厳し過ぎる道徳観が、支配的な親の如く自虐的と思えるまでに自我を徹底的に攻撃することが想定されているためです。

補足) ちなみにこのような厳し過ぎる道徳観は、パーソナリティ障害など重症域の人の心で想定されているものであり、健全な人の道徳観はもっと穏やかなものです。
またこの古典的な精神分析理論を援用すれば、先のノマド的な心性は、過酷な超自我の支配から逃れて自由になりたい心の叫びの反映とも解釈できそうです。

参考文献

「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」展示カタログ
マルク・オジェ著『非‐場所―スーパーモダニティの人類学に向けて (叢書人類学の転回)』、水声社、2017年

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