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アルフレド・ヒル《非自然化-1》@「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想

先日終了した「Diversity vol.2」の展示作家の作品の感想。万城目純さんに引き続きラストはTakaaki Kumagaiさんです。
(4人目の相良ゆみさんの作品は、残念ながら都合がつかず拝見できませんでした)

Takaaki Kumagaiさんはコロンビア在住のキュレーターで、今回は彼のキュレーションしたグループ展「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の展示作品の中で、私自身が特に興味を惹かれた作品をピックアップして紹介致します。

アルフレド・ヒル《非自然化-1》の作品概要

1つ目の作品はアルフレド・ヒル《非自然化-1》(Alfredo Gil “Denatured-1”)です。
近年注目のバイオアート的な手法の作品です。

アルフレド・ヒル《非自然化-1》(Alfredo Gil "Denatured-1")

展示カタログによれば、同作品は応用微生物学の専門家のバックグラウンドを活かした作品で、微生物の培養実験などで使用されるシャーレによって、水の結晶体と類似したイメージを作り出す試みです。

各シャーレの中に見える斑点のような物質は、生育に不適切な環境の元で培養=成長が止まってしまった生命体の痕跡です。

ヒル氏によれば、この成長が止まってしまった微生物が作り出す表面が、アスファルトで地面を覆い尽くし他の生命体を排除することで整備される現代の都市空間と極めて類似しているとのことです。

存在論と近代主観主義との対比を連想

このヒル氏の説明を聞いて、今読み進めている『美学・芸術学研究』の中で展開される、古代ギリシア哲学に端を発する存在論とデカルトの二元論に端を発する近代主観主義との対比が思い出されました。

私の理解では、(価値に関して比較すれば)存在論とはこの世界には人間の知覚に左右されることのない自律的な価値が存在すると考える思想で、近代主観主義とはこの世界に自律的な価値など存在せず、それは人間の認識によって初めて生じる、つまり主観的なものと考える思想です。

近代主観主義を象徴する都市のコンクリート・ジャングル

なお近代と聞くと、現代に生きる私たちにとっては時代遅れの思想のように感じられるかもしれませんが、実際はそうではなく、今でも様々な分野において、この近代主観主義の思想が息づいています。

ヒル氏の指摘するコンクリート・ジャングルもその典型例で、そこでの自然が有する価値とは人間にとっての利用価値でしかなく、したがってそのような自然は利用価値を高めるために際限なく作り変えられる対象物でしかありません。

宇宙全体を象徴する水の結晶体のイメージ

このように考えると、ヒル氏の作品のシャーレが、円形であることから人間の活動によって蝕まれた地球のように見えて来ました。
であれば作品全体は、惑星が無数に存在する宇宙のようにも見えて来ます。

そしてこの連想からすれば、ヒル氏が無数のシャーレによって作り出そうとした水の結晶体と類似したイメージは、宇宙全体を象徴する曼荼羅のようなシンボルと言えそうです。

しかし悲しいかな、私たちを含めた近代主観主義者は、自身の認識(=主観)にばかり価値を置き、それ以外の事柄にはまるで無関心であるため、水の結晶体に象徴される宇宙全体を感じ取ることができません。
そのような芸当は、自身が認識した事柄以外にも価値を置く存在論者の、全体的(ホリスティック)な視座によって初めて知覚されるものなのです。

参考文献

青山昌文著『美学・芸術学研究 (放送大学大学院教材)』、放送大学教育振興会、2013年
「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」展示カタログ

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