目次:
1. 企画名を「校則破り」とした理由(このページ)
2. 作品の制作や展示への干渉は至る所で生じている
3. 本企画をART TRACE GALLERYで実施する場合の構想
企画の背景となる事象
本企画は「アーティストラン」というギャラリーの運営形態について考察する中から生まれた。
作家自身が多くは共同で運営するアーティストラン形式のギャラリーは、美術館や貸しギャラリーなど他形式のスペースと比べて、ステークホルダーの少なさもあって、一般的には自由度の高いギャラリーと考えられている。
しかしながらその実際の活動内容に目を向けてみると、大部分は個々の作家が制作した作品を展示し、それを来場者が鑑賞するという、西洋社会において近代に確立されたスタイルを今も忠実に周到していることが判明する。
つまり上述の「自由度」とは、典型的には対象を「作品」と「展示の仕方」に限定して用いられる尺度であることが分かる。
そしてこうした伝統が今も継承されているのは、恐らくその一連のプロセスについて、業界の平均以上に主体的に取り組んでいるはずのアーティストランの作家でさえもが自明の理と考えているため、それについて特に疑問視されることもなく月日が流れてきたからではないかと考えられる。
「校則」に対する生徒の理不尽との思い
ここで企画のタイトルにある「校則」について考えてみたい。恐らく大多数の人々は、学校の校則を有り難いものというよりも、むしろ「不自由さ」を強いる象徴のような存在と受け止めていたのではないだろうか。
その最大の理由は、例えば服装における柄や寸法の厳密な規定など、根拠に乏しい、あるいはそれを示されても到底納得できないようなルールが数多く存在するためではないかと考えられる。
しかし大多数の学校では「規則」とはそれゆえに無条件に守られねばならないものとの認識から、厳しいところでは絶対服従を強いられるため、生徒の心の中に理不尽との思いが募ることになりかねない。
そしてさらには(最近はスクールカーストなどの例外的な価値観も存在するようになってきてはいるが)その校則を忠実に守れる生徒には「良い子」と人格に合格点を与えられるのに対して、それができない生徒に対しては「不良」とのレッテルが貼られ、将来問題を引き起こす問題児と見なされるようになる。
校則に疑問を感じること自体は「健全な批判精神」の表れではないか
しかし果たして本当にそうなのだろうか。例えば見方によっては、もしそれが内容を踏まえた上でのものでないとしたら、「良い子」とは物事を自ら判断することなく何でも無自覚に受け入れる存在であるのに対して、校則に疑問を感じること自体はむしろ健全な批判精神の表れと言えないだろうか。
作家活動に関わるルールや常識を問い直す
少々前置きが長くなってしまったが、本企画は普段無自覚に受け入れてしまっている可能性のある作家活動のルールや常識に関する部分を可能な限り見直し、それらについて本当に役立っているのか問い直し、どうしてもそうは思えないのであれば実験的に変えてみることを試み、その試みから生まれた成果物を公開するものである。
したがってそれは単に面白そうと感じたからではなく*、また派手な、もしくは犯罪すれすれの行為で注目を浴びることを目的としたものでもない。
あくまで健全な批判精神に基づくものであるため、自身の行為に対する理由づけを必要とする高度な思考実践と言えるものである。
*補足) 面白さを感じて色々なことを試すこと自体は、私はとても好ましいことだと思う。ただ今回の展示の趣旨には合わないだけである。
そしてこの精神を校則に投影し、それが不要なものとしか思えないのなら試しに破ってみても良いのではないかとの思いを込め、展示の性格を象徴する精神として校則破りというキーワードを用いた。
次のページでは、このような精神に基づく態度は、現実には必ずしも歓迎されるとは限らず、むしろ厳しい批判に晒されることも少なくないことから、その状況を展示に取り込み、複数の文脈から構成される重層的な企画へと昇華することを試みる。