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いつの間にか「造形」から「社会的文脈」に関心が移っていた

一昨日の深夜、カメラを持って行けば良かったと後悔した出来事がありました。
近所の行きつけの牛丼屋で、普段は目にすることのない珍しい光景を2つも見かけたためです。

牛丼屋で遭遇した珍しい光景

珍しい光景の1つ目は、客席の至る所に、まるで宴の後のように飲み食いした食器が残されていたことです。
この店舗はセルフサービスを導入し、顧客もそれを承知しているため、こうした光景を目にすることは稀です。

もう1つは、まるでここが休憩室であるかのように、過半数の顧客(すべて男性)が長時間熟睡していたことです。

活動当初は「造形」面に強い関心を持っていた

私は2013年から写真家として作家活動を開始しましたが、活動当初の3年間は主に被写体の「造形」面に強い関心を持っていました。
ですから人物を撮ることはほとんどなく、専ら風景ばかりを撮っていました。
例えば雲の形に惹かれて空の写真を撮るというようにです。

昨晩は身近の珍しい光景に強い関心を抱いた

ところが昨晩は、前述のように身近の珍しい光景を撮りたくなりました。
もっともその動機は、単なる物珍しさからではなく、その光景から背後にある様々な社会的文脈が連想されたためです。

例えば1つ目の光景からは、次のような社会的文脈が連想されます。
・深夜の時間帯はスタッフが少なく、片付けまで手が回らない
・日中は滅多に見られないことから、疲れてくると理性が後退して顧客のマナーが乱れてくる
・しかしそれはスタッフも同じで、よく見るとそれほど忙しそうには見えないことから、疲労もあってサボっている可能性がある。但しこれは個人の責任感の有無の問題だけに留まらず、24時間営業の影響も無視できないと考えられる。

また2つ目の光景からは、次のような社会的文脈が連想されます。
・よく見ると1人の男性は、食べ終わった丼に顔を突っ込んだまま眠っていた。恐らく眠気に耐え切れず無自覚に眠り込んでしまったことから、相当の過労状態であることが推測される。
・またこのような光景に対して店員が無関心なことから、これが日常的な光景であることも推測される。

社会的文脈への強い関心

私は2016年の後半あたりから、徐々にコンセプト重視へと作風を変化させると同時に、人物を被写体として撮影する機会が多くなりました。
この変化の要因として、以前は京都造形芸術大学の通信課程に入学したことや、アーティストランのART TRACE GALLERYに所属したことの影響が大きいと考えていました。

しかし昨晩の事柄を考慮すると、そのような環境変化と共に、その影響を受けてのものかもしれないとしても、関心自体にも根本的な変化が生じていたことが分かりました。
ただこれまではレタッチ時には造形面へのこだわりが強くなることから、その変化がはっきりと自覚されることがなかったのです。

もっとも、これまでも社会的文脈を作品制作に取り入れては来ました。しかしその手法は一貫して先にコンセプトを立案し、それに基づき撮影環境を設定する、つまり演出的なものでした。
この点が今回のエピソードとの決定的な違いです。

これは同じく社会的文脈を作品に反映させるにしても、前者が思念という精神内界に重きを置いているのに対して、後者は連想を伴うとしても目の前に広がる現実への即時的な反応の比重が高いと言えます。

ですので、これからはなるべくカメラを持ち歩くことを心がけたいと考えています。
(ここ数年は上述のように作品制作に関しては専らコンセプトを立案してから撮影するスタイルだったため、別の用途でしかカメラを持ち歩くことはなくなっていました)

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