大久保紗也の個展「遠くの痛点」の展示風景。白い壁に大小の抽象絵画が点在し、一部は複数の画面をずらして重ねている。

モチーフを選ぶ、その手の力——大久保紗也「遠くの痛点」を見て【11月8日まで】

絵にするために、何かを選び取る。その行為自体に、暴力が含まれているのかもしれない。

大久保紗也さんの個展「遠くの痛点 / Far away from the pain」で伺った話が、鑑賞後も心に残っている。かつて写真家を志して学んでいた私にとって、写真を撮る行為についても、あらためて考える機会となった。

11月1日、麻布台ヒルズのGallery 舞台裏を訪ねた。この日は大久保さんが在廊されており、作品や制作について直接お話を伺うことができた。

会期は11月8日(日)まで。 絵画に関心がある方はもちろん、写真や映像に携わる方にも、ぜひ足を運んでほしい。

白や橙、灰色の筆跡が重なる画面を、赤褐色の身体を思わせる輪郭線と太い黒い帯が横切る絵画。
大久保紗也《Split into three pieces》(2026年)
大きくうねる輪郭線と、複雑に重なる色の層が画面を構成する。

線に引き込まれ、像の前で立ち止まる

《Split into three pieces》では、赤褐色の輪郭線が大きくうねり、黒い帯のような形が画面を横切る。その間には、絵具を引きずったような筆跡や、複雑に重なる色の層がある。何かの身体にも見えるが、ひとつの姿として捉えようとすると、別の線や色に目を奪われる。

《How dangerous are you》では、複雑な画面の手前に、もう一枚の小さな画面が重なっている。そこには、丸いものを指先でつまみ、あるいは手のひらに受けるような、二つの手が描かれている。周囲の抽象的な筆致のなかで、その手の形が妙にはっきりと目に留まった。

紫や灰色を基調とする抽象的な絵画の手前に小さな画面が重なり、丸いものを持つ二つの手の輪郭が描かれている。
大久保紗也《How dangerous are you》
重なった画面の手前に、二つの手の輪郭が浮かぶ。

右壁面には、小さな作品が高さを変えて点在し、複数の画面が少しずつずれて重なる作品もある。一点に近づいて線を追い、離れて壁全体を眺める。その行き来のなかで、絵の見え方も変わっていく。

今回、私には全体として線の軌跡がよりラディカルになったように感じられた。一方で、手のように具体的な形も現れる。その両方が同じ画面にあることが、印象に残った。

見ることと、理解することの間

本展のステートメントでは、スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』が引用されている。

この本は、私が写真家を志していた当時、美大や、その入学前に通っていた写真教室で、ロラン・バルトの『明るい部屋』とともに必読書として挙げられていた一冊だ。絵画の展覧会でその名前に出会い、写真を学んでいた頃の問いが、再び身近なものになった。

大久保さんは、横田基地の近くにあるアトリエで聞くオスプレイの音から、遠くで起きている惨事と自分の日常との隔たりへと思考を進める。そして、報道写真や記録写真を抽象化して描く自身の絵画にも、見る人が元の出来事を容易には理解できない隔たりがあると記している。私には、自分の制作もその問いの内側に置いているように読めた。ステートメント全文(Artsticker公式)

画像を見て心が動くことと、そこにいる人の経験を理解すること。その間には、簡単には埋められない距離がある。

それでも反応してしまう自分を、どう引き受けるのか。大久保さんの絵画の前に立つと、その問いが、作品を見る自分にも返ってくるように感じた。

描く以前の「選び取ること」にある暴力

今回、私にとって一番の収穫は、ソンタグを引用した意図を尋ねたときのお話だった。

以下は私の記憶とメモに基づく要約だが、大久保さんは、実際の事柄をモチーフに制作する際、それを一方的な行為のように感じ、そこにある種の暴力を感じるのだという。

写真や映像では、人にカメラを向けることの暴力性が語られる。撮る側が相手の姿を切り取り、その像を手元に持ち帰る。その関係は、私にも覚えのある問いだった。

けれど、画家からこの種の話を伺ったのは初めてだった。その新鮮さを伝えると、大久保さんは嬉しそうな反応を返してくださった。

私がそれまで意識していたのは、主にカメラを向ける場面での力の不均衡だった。大久保さんのお話から感じたのは、それよりも手前にある、何をモチーフとして選ぶかという段階へのためらいである。

考えてみれば、写真でも同じことは起きている。誰を撮るか、何に目を留めるか、何を画面の外に置くか。私はその選択を、どこまで自分の側の行為として自覚していただろう。

他者の苦痛を見つめるとき、自分はただ受け取っているだけだと思いやすい。しかし、それを作品にしようとする瞬間、そこには選び、形を与える自分の力が働く。大久保さんとの対話は、私がまだ十分に考えられていなかった場所を照らしてくれた。

壁の角を挟んで並ぶ二点の絵画。左は黄と灰色、右は赤褐色と白を基調とし、身体を思わせる輪郭線や有刺鉄線状の線が重なる。
左:大久保紗也《uncomfortableness》、右:同《pointing(the child looked as if he were asleep)》
二つの作品を並べて見ると、線や色の響き合いにも目が向く。

会場で、その距離を感じてほしい

大久保さんによれば、ソンタグを取り上げたことは、作品の変化にもつながったという。

そのお話を聞いてから《How dangerous are you》の手を見ると、描かれた手と、描く側の手が、私のなかで重なった。何かに触れようとする手、選び取る手。その力を自覚しながら描くことへの葛藤が、線の激しさや像の揺らぎにも関わっているのだろうか。そんなことを考えた。

モチーフを選び取ることにまで、力の不均衡を感じ取る。その感覚と向き合いながら、大久保さんがこれからどのような作品を生み出していくのか、見続けたいと思う。

大久保紗也の個展「遠くの痛点」の展示風景。白い壁に大小の抽象絵画が点在し、一部は複数の画面をずらして重ねている。
会場右壁面の展示風景。大小の作品が点在し、画面をずらして重ねた作品が壁面に奥行きを生む。

難しいテーマを扱う展示だが、まずは画面の色や線に目を留めるところから入ってもいい。絵具の重なりを追い、手の形に気づき、少し離れてもう一度見る。その時間を経てステートメントを読むと、言葉の届き方も変わるかもしれない。

会期は11月8日(日)まで。ぜひ会場で、これらの絵画と向き合う時間を持っていただきたい。


大久保紗也 個展「遠くの痛点 / Far away from the pain」

  • 会期:2026年10月15日(木)〜11月8日(日)
  • 時間:11:00〜18:00
  • 休廊:月曜日(祝日の場合は翌日)
  • 会場:Gallery 舞台裏/Gallery & Restaurant 舞台裏
  • 住所:東京都港区虎ノ門5-8-1 麻布台ヒルズ ガーデンプラザA B1F
  • アクセス:東京メトロ日比谷線「神谷町」駅5番出口より駅直結、徒歩約1分
  • 観覧料:無料

開催情報:主催者による案内 / 展覧会公式ページ(ArtSticker)

参考文献

スーザン・ソンタグ著『他者への苦痛のまなざし』みすず書房、2003年

大久保紗也の個展「遠くの痛点」の展示風景。白い壁に大小の抽象絵画が点在し、一部は複数の画面をずらして重ねている。
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