普段テレビで目にするエンターテイメント性の強いドラマや映画との違い〜物語と物語性
続いて気づいたのは、普段テレビで目にするエンターテイメント性(娯楽性)の強いドラマや映画との大きな違いです。
これらのドラマや映画では、演出の多くがストーリーや登場人物の心情などを解りやすく伝えるための工夫に当てられているとの印象を受けます。
(ちなみにメディアから伝わってくる評論家の方々の話では、この傾向は飽きっぽく、かつ思考能力を必要とされる状況を嫌うユーザーの関心を繋ぎ止めるために、ますます強まっているそうです)
対してシルバー氏の作品では、前述のようにインタビューの内容とは一見無関係に思える風景の映像が挿入されているわけですから、その演出はストーリーや登場人物の心情などを解りやすく伝えるためのものではないことは明らかです。
ではシルバー氏が制作したような作品は、ストーリーが一切存在せず、映像の断片の連続に過ぎないのかといえば決してそのようなことはなく、先ほどのエンターテイメント性の強いドラマや映画ほど明確なものではないとしても、それらしきものが存在します。
それは物語性あるいは臨床心理の分野でも用いられるナラティブなどと呼ばれているものです。
ここで物語性と「性」が付け加えられているのは、それが明確なストーリーは持たずとも、しかし物語のような性質を有しているからではないかと考えられます。
制作者から半ば一方的に示される物語と、受け手の想像力に強く依存する物語性
では物語と、あくまでその性質を有しているに過ぎない物語性とでは、具体的にどのような違いがあるのか?
私見ですが、その最も大きな違いは、ストーリーの明確さに加えて、それを生み出す主体の違いにあると考えられます。
物語がその制作者によってある程度明確に示され、それゆえ受け手の解釈にそれほどバラツキが生じないのに対して、物語性は制作者から示されたビジュアルその他の情報に対して、受け手が積極的に想像力を働かせないと生まれて来ない(感じられない)代物であるとの違いがあるように思えます。
このため後者の物語性においては、受け手の想像力に大きく依存している分、当然ながら受け手の解釈に前者以上のバラツキが生じることが予想されます。
次回投稿する次のページでは、この解釈のバラツキの程度の違いが与える影響を、主に想像力が働くプロセスを軸に、より詳しく見て行く予定でしたが、内容が本記事の「映像作品への印象」とはかけ離れた内容となってしまったため、別記事にして作成しました。
私説:アートとデザイン、エンターテイメントとでは、情報の受け手の解釈のバラツキに大きな違いがある
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