昨日、私も先日個展を開催したトキ・アートスペースで、坂内美和子展|陰と陽のオープニングにお邪魔して来ました。
陰と陽について
まず今回の展示タイトルの陰と陽について、簡単に触れておきます。
陰と陽とは易経と同じく中国の道教に基づく考えで、よく次の陰陽太極図と呼ばれる図形で表現される概念です。
具体的には図形の上部の白い部分が陽、下部の黒い部分が陰を表しており、心理学的な解釈を加えますと、陽の部分は意識されている、すなわち現実と認識されている領域を、陰の部分は無意識ゆえ認識することのできない領域を表していると考えられます。
道教では、ユングの補償機能の考えと同じように、陽の部分で起きていることと対立するような事柄が陰の部分で進行し、後者の陰の領域の力が徐々に高まることで、やがては陽の立場に取って代わり、しかしその陰(無意識)へと追いやられた力が再び力を持ち始め…というような流動的な世界観を想定しており、このような考えは陰陽説とも呼ばれます。
以上のように、物事のバランスを取るために常に拮抗した力が働いていることを想定しているのが道教の陰陽思想の特徴の1つと言えます。
見方を変えれば、この世に絶対的に正しい事柄など存在しないという思想です。
例えそれが大多数の人々の間で望ましいこととして共有されているような事柄であったとしてもです。
坂内美和子展|陰と陽のステートメント
次に坂内氏からを許可をいただいたステートメントを掲載します。
作品のテーマは「陰と陽」。
世の成り立ちには陰と陽のふたつでバランスを保たたせている。
だが、ここ最近の陰陽は激しい。目まぐるしく襲う自然破壊、建築ラッシュ、汚染。
。
これらの暴走はここ数年は更にエスカレートしている。座視、物言えぬ者たち、無表情、引きこもり過重労働、虐待、自殺。
人々は座視のままだが、自然界は抵抗するかのように破壊する。
今夏は世界各地で連日35度を超す猛暑、秋には毎週の大型台風、同時に北海道での大地震により、人々の命も多大に失った。
これらは同時多発テロと似たような現象だ。自然破壊に歯止めをかけるかのように、天災から教訓させられたのであろう。
それらは今の陰と陽の成り立ちなのかもしれない。
夏に戸隠へ訪れた。
神社までの参道の両脇に、太い威圧感ある大木の杉が何処までも根を張り私の前に立ちはだかっていた。ここらは大きな森となって覆われているため、涼風が私の身体をさえぎり、心地いい。
森から差し込む日差しは希望にも見え、
あぁ、まだここに安らぎというのもあるのかと少々安堵する。私はこの体験を元に、自然界の木と人工物のアクリル
を使用し、彫りとペイントで現世の陰と陽の成り立ちを
表したい。
ステートメントと作品との整合性
続いて前述のステートメントと作品との整合性についてですが、私はとても腑に落ちました。
例えば上の作品に塗られた、人工物のアクリル絵の具の色合いです。
彩度が高めの色合いは人工的に感じられますし、また色相環上の反対色が多く使われている点についても、調和よりも対立的な力を感じます。
陰陽2つの力を司る、より根本的な原理(タオ)が作品のテーマかもしれない
最後に、この点はレセプションで多くのお客様がいらっしゃったため詳しく聞けませんでしたが、もしこの展示がインスタレーションを強く意識したものでしたら、例えば作品がもっと乱雑に置かれ廃墟のようになっていたとしても、それはそれで陰の有無を言わせぬ力の凄まじさが感じられて、見応えのある展示になったかもしれません。
なぜなら無意識の象徴でもある自然の力とは、作家の作品に対する思い入れなどにお構いなく作用するものだからです。
とは言えステートメントには大木を前にして安らぎを感じたとありますので、恐らく坂内氏は陰の力の凄まじさよりも、タオと呼ばれる陰陽2つの力を司る、より根本的な原理に包まれる、あるいは身を任せる心地良さのようなものを感じ取られているのかもしれません。
(木は象徴学・神話学的には宇宙の象徴)
なぜなら局面だけ取れば一方が他方を打ち負かしているように見えても、全体としては立場がゆっくりと交代しているに過ぎないのであり、それゆえ大局的には非常にゆったりとした流れであるためです。
この点は例えば自然物である木材に人工物であるアクリル絵の具で描くという形態に、つまり両者が相手を退けるのではなく密着していることなどにも表れているように思えます。
展示は12月9日(日)までで、水曜日は休廊です。