画像生成AIツールで、特定の作風を排除した画像生成を模索する過程で、自身の抱く斬新という感覚が、実は極めて主観的なものであることに気づかされました。
またこの体験は『美術手帖』の生成AIの特集号の指摘に通ずるものでもありました。
特定の作風を排除するだけでは、人物のプロポーションが崩壊してしまう
前回、画像生成AIツールのStable Diffusionを使用して、プロンプトに「一人の女性」、ネガティブプロンプトに「レオナルド・ダ・ヴィンチの肖像画のスタイル」と入力し、他の設定は全てデフォルトのまま画像を生成したところ、非常に斬新なファッションの女性のポートレイト写真が生成されました。
その後、試しにプロンプトの影響が最大限になる設定に変え、それ以外の設定は前回の画像と同じにして再度画像を生成してみたところ、次のような画像が生成されました。
今度の生成画像はイラストレーションで、非絵画という点では前回の写真と同じですが、人物のプロポーションの崩壊が目立っています。
こうしたことは作風と言えなくもないのかも知れませんが、画像生成AIではクオリティに関するプロンプトを指定しないと、しばしばプロポーションの崩壊が生じるそうですので、今回の生成結果はその影響が大きいように思えます。
またこのように考えると、前回の写真画像も斬新なファッションというよりも、実は単にバランスが崩れてしまったファッションということなのかも知れません。
斬新という感覚の主観性
ですが私は、そのAIにとっては造形面の失敗に過ぎないものに対して、斬新という非常にポジティブな感覚を抱いたわけです。
ここに至って斬新という感覚が、何の担保性も有しない、単なる主観の産物のようにさえ思えてきます。
そして、ひとたびプロポーションの崩壊に意識が向くと、不思議なことに、これまでの魅力が途端に色褪せ、粗探しのようなことを始める自分に気づくのです。
少し前に読んだ『美術手帖』の生成AIの特集号に、生成AIと向き合うことは、これまで無自覚だった現実の様々な事柄に向き合うことになる旨のことが書かれていましたが、今回の体験はその指摘どおりの展開となりました。