エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest)《南瓜 Gourds》

エレン・アルトフェストの作品感想@地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

同じく忘れ去られた対象の物質性への意識

昨年の森美術館「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」で展示されたエレン・アルトフェストの絵画作品の感想記事。
1ページ目ではアルトフェストの一般的な評価のほかに、私自身が感じたこととして、フロー状態と言えるような対象への没入性や、構図への無自覚さなどを記載したが、作品を描く際にアルトフェストの意識から締め出されているのは、構図への気配りだけではない。

エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest) 左《南瓜 Gourd》2004、右《腐る南瓜 Rotting Gourds》2007
エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest) 左《南瓜 Gourd》2004、右《腐る南瓜 Rotting Gourds》2007
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 – 非営利 – 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。

上のカボチャを描いた二つの絵画、特に右側の《腐る南瓜》からは、カボチャと言われなければそれと分からないほどカボチャとしての物質的な特性が失われてしまっている。

このことから冒頭で触れたアルトフェストに対する「具象表現でありながらも抽象性を備えている」との評価には、一見すると具象表現のように見えるが、実際は描かれたモチーフから物質としての特性が感じられない作品が存在していることも関係しているのではないかと考えられる。

対象と背景の境界が消滅し、すべてが等価となった世界〜平等に漂う注意

さらにアルトフェストの絵画作品の特徴として、対象と背景の境界が消滅し、すべてが等価となったような世界観を挙げることができる。

エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest)《流木 (窓台) Driftwood (Windowsill)》2003
エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest)《流木 (窓台) Driftwood (Windowsill)》2003
この写真は「クリエイティブ・コモンズ表示 – 非営利 – 改変禁止 4.0 国際」ライセンスの下で許諾されています。

こちらの作品では、中央に配置された流木と背景の街並みとの間に調和が感じられず、むしろ唐突に置かれているような印象を受ける。
さらに言えば、背景の街並みは偶然視界に入っていたため描かれたに過ぎず、中央の流木との間に何ら関連性がないようにさえ思える。

したがってこの作品は、心を持たぬカメラのレンズのごとく、あらゆるモチーフが意味を与えられることなく純粋な視覚情報として捉えられる、その意味ですべてが等価となった世界を見ているようである。

精神分析を創始したジークムント・フロイトは、分析医の心構えとして「平等に漂う注意」という概念を提唱した。
これはアナリザンド(分析を受ける人)の連想に対して、自分の興味や信念などに基づいて価値判断することなく、すべてを等価なものとして注意を向ける態度を推奨したものである。

アルトフェストは網膜に映る対象(というより映像)を「平等に漂う注意」でもって記録し続けているのかもしれない。

この点についてアルトフェスト自身は「(自身と世界の両方が)共存した時間」と述べているが、その「共存」という感覚が、私には一切の優劣が存在しない「等価」を意味しているように思えた。

参考文献

ジークムント・フロイト著「分析医に対する分析治療上の注意」『フロイト著作集 9 技法・症例篇』所収、人文書院、1983年

森美術館「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」公式ページ
(展示はすでに会期終了)

エレン・アルトフェスト(Ellen Altfest)《南瓜 Gourds》
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