先日、最終日にART TRACE GALLERYのグループ展「カナタのてざわり」を見てきました。
企画者でもいらっしゃる橋本佐枝子さんと、コヤマイッセーさん、長谷川美祈さん、馬見塚喜康さんの4人展です。
最終日につき、会場には長谷川さんを除くお三方がいらっしゃいましたが、今回はどうしても確認したことを除いてあえて質問はせずに、作品と対峙したときに心の中に生じたことのみから感想を綴ってみたいと思います。
なお展示タイトルにある「てざわり」とは、会場に設置された橋本さんの企画文によれば、日々さまざまな事柄から感じられる感触の中でも、「心臓をわし掴みにされるような」強烈な体験のことを指しているようです。
1ページめ目次:
コヤマイッセーさんの展示作品 – 記憶としての懐かしいイメージと理想像の交差
「ドローイング=第二の脳」説からデリダの『盲者の記憶』を想起
コヤマイッセーさんの展示作品 – 記憶としての懐かしいイメージと理想像の交差
では早速、展示の感想に移ります。一人目は入ってすぐ目に飛び込んできたコヤマイッセーさんの展示作品です。
この写真には写っていませんが、左側にもう1点作品があり、その計4作品のうち3作品のタイトルに空き地が含まれていました。
子供は外で遊ぶの当たり前だった時代、空き地は格好の遊び場でした。
イッセーさんのこれらの作品からは、記憶を通じた懐かしい「てざわり」の感覚が伝わってきます。
一方、小展示室のイッセーさんの作品には、ヒーローのような存在が登場します。
子供にとってヒーローとは憧れの存在であり、また現実には不可能な願いを叶えてくれる存在でもあります。
これらのことから、今回のイッセーさんの展示では、記憶としての懐かしいイメージと理想像とが交差する世界が展開されていました。
「ドローイング=第二の脳」説からデリダの『盲者の記憶』を想起
またイッセーさんの展示では、ステートメントにも興味深い記述がありました。
ドローイングとは、第二の脳である。外界に対するアンテナであり、多くの情報に気づき、取集する力である。一方で気づく手段でもあり、気づきそのものでもある。素早く瞬時に消えていくものを焼き付け、ぼやけていくものを鮮明にしていく作業がドローイングである。
こちらはその前半部分ですが、これらの文章からフランスの現代思想家ジャック・デリダの『盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟』という著書のことが思い出されました。
デリダは芸術に関する著書を何冊も書いており『盲者の記憶』はその中の一冊です。
『盲者の記憶』の中でデリダは素描、つまりドローイングの過程に着目し、その際に描く瞬間は対象から視線を外さざるを得ないことから、対象のイメージを正確に保持したまま描くことは不可能であり、したがって実際は短期的な記憶を頼りに描いていると考え、そのことを「盲者の記憶」と表現しました。
デリダの指摘ももっともですが、それ以外にもそもそも三次元の事象を二次元に置き換えた時点で既に「ありのまま」の状態ではなくなってしまうことから、ドローイングにおいて対象のイメージが変質してしまうのは避けられないと考えられます。
とは言え、見方を変えれば、異なる次元での表象を可能とするドローイングという技術は、新たなものを生み出すという意味で創造的な営みとも言えます。
そしてその種の創造力は、デリダが指摘した対象から目を離したその瞬間に活発に作用しているのではないかと考えられます。
なぜなら対象から目を離し、続いてキャンバスなどの支持体へと視線を移すそのわずかな瞬間においては、意識が観察モードから解放されることが予想されるためです。
イッセーさんはドローイングを「第二の脳」と称していますが、第二のということはドローイングが普段機能している意識とは異なるものであることを示唆していると考えられます。
そしてその差異を生み出す重要な作用の1つが、デリダも着目した対象から支持体へと視線を移すほんの一瞬の間に生じているのではないかと私には思えました。
参考文献
ジャック・デリダ著『盲者の記憶―自画像およびその他の廃墟』、みすず書房、1998年
補足) このページの文章を後日読み返してみると、この時はデリダの理論が想起されたため、それとの整合性を図るために思考を巡らせましたが、イッセーさんの「第二の脳」の見解は、むしろ身体の脳からの自律性を唱えたモーリス・メルロー=ポンティの理論との方が相性が良いような気がします。
このため2ページ目にその見解を掲載いたしました。