作品という隠れ蓑から作家が飛び出し素の自分を曝け出したような作品を構想

私たちはそれが作品だと認識することで安心して無遠慮に鑑賞できている

観客の側から考えると、登場人物という一種の「隠れ蓑」があることによって、俳優を無遠慮に凝視できる部分がないだろうか。(中略)このとき俳優が素のままでそこにいれば、遠慮や気まずさが生じ、その体をジロジロとは見にくくなってしまう。しかし俳優を登場人物と同化して考えることで、目の前にあるはずの体は一種架空のものとなり、我々観客は安心して無遠慮になることができるのである。(『フランス演劇にみるボディワークの萌芽ー「演技」から「表現」へ』P.8)

これは、なかなか鋭い指摘です。私たちが演劇その他の舞台芸術を鑑賞しているとき、俳優の演技にどれほどリアリティを感じたとしても、そこでは俳優を生身の人間として感じているのではなく、それでもあくまで作品の一部と認識しているということです。
そして作品だからこそ、人間に対してなら当然要求される配慮を払うことなく、もっぱら対象物として好き勝手に見ることができるということです。

加えてこの感覚は、対象が無機物なので当たり前のこととはいえ、アート作品を鑑賞している時にも体験されていることです。

作家が作品という隠れ蓑から飛び出し素の自分を曝け出したような作品を構想

であれば逆に、作家が作品という隠れ蓑から飛び出し素の自分を曝け出したような作品を作ってみたくなりました。

と言っても、それはセルフポートレイトを撮影することで直ちに実現するわけではありません
セルフポートレイト作品の大部分に映し出されているのは「見せたい自分」あるいは「見て欲しい自分」、つまり他者から見られることを前提とし、その他者の視線を十分に意識した、よそゆきの自己(像)に過ぎません。

私が構想しているのは、その仮面(現代風に言えばキャラ)さえ取り払われた自己が、しかも鑑賞の対象物たる作品として提示されるというものです。
恐らくそこでは、作品に内在された要素それ自体よりも、それらと対峙することから生じる体験そのものに焦点が当てられることになると予想しています。

引用文献

中筋朋著『フランス演劇にみるボディワークの萌芽―「演技」から「表現」へ』、世界思想社、2015年

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