作品『症状の肖像』のコンセプトは『パフォーマンスの美学』で取り上げられたアブラモヴィッチの作品『トーマスの唇』から生まれた

今回もトキ・アートスペースで開催中の個展「症状の肖像」に関する記事です。
何人かの方から作品の制作動機を聞かれましたので、その点について触れたいと思います。

アブラモヴィッチの作品『トーマスの唇』の概要

作品が生まれた直接のきっかけは、エリカ・フィッシャー=リヒテ著『パフォーマンスの美学』で冒頭に取り上げられ、かつ表紙にも使われている、アブラモヴィッチの作品『トーマスの唇』でした。
(ですので少し前の『フランス演劇にみるボディワークの萌芽』を作品『症状の肖像』が生まれるきっかけとした記事は、私の勘違いでした)

簡単にそのパフォーマンス作品の概要を説明しますと、ギャラリー内の観客が見ている前で、アブラモヴィッチが衣服をすべて脱ぎ捨てた後にペンタグラムで縁取られた自分と良く似た男性を写した写真をピンで留め、続いて大量の蜂蜜と赤ワインを摂取した後に、小刀で自分の腹にペンタグラムを刻みつけ、その傷を放置したまま氷で作られた十字架の上に横たわり続けるというものです。

そしてこのパフォーマンスは、見るに見かねた観客が彼女の救助に乗り出したことで終了となりました。

アンナ・オデルの『Okand, kvinna 2009-349701』と共に、作品が他者に与える影響が軽視されていることへの懸念

このような過激なパフォーマンスへの懸念は、以前に「アンナ・オデル『Okand, kvinna 2009-349701』論争考察~制作意図のみを重視し行為の影響を軽視するアート業界の問題が凝縮された作品」でも表明したことがあります。

しかしオデルのパフォーマンスとの大きな違いは、アブラモヴィッチのパフォーマンスが公共の場ではなくギャラリーという、主としてアート・ワールドの住人が足を運ぶ場所で行われたことです。
そのためリヒテも指摘しているように、それがどれほど過激なパフォーマンスであったとしても芸術的な行為として行われているものとの暗黙の前提が働くことで、オデルのケースとは異なり観客に制止されるまでに2時間もの時間が経過していました。
その意味で観客の心に与える外傷的な影響は、即座に制止されたオデルの自殺を試みるパフォーマンスよりも大きいかもしれません。

作品『症状の肖像』のコンセプト

以上のような他者の心に外傷的な影響を負わせかねないような作品がアーティストによって度々作られ、かつそれらの作品が少なくてもアート・ワールドの枠内では大して批判を受けることもなく、アートとして十分に成立していると見なされているのが実情のように思えます。

補足)ただし『パフォーマンスの美学』では、その倫理性が問題視されています。

そしてこのような状況に対して、ネガティブな感情を表現するとしても「もっと別の形で表現できないものか」と考え思いついたのが、ステートメントにも記載されている次のようなコンセプトでした。

精神分析やプロセス指向心理学など一部の心理療法では、精神症状や原因不明の身体症状に対して、それ自体にその人固有の意味がある、あるいは個人を超えた目に見えない神秘的な力の顕現と考える。
そこで、このような症状の有様を「症状の肖像写真」として作品化することを試みた。

なおここで症状を単に辛いものと考えるのではなく有用性をも加味しているのは、今から思えばアデルやアブラモヴィッチの作品のようなものにはしたくないとの思いが強く影響していたのかもしません。

また結果的に出来上がった作品群も、何らかの症状を明確に示したものではなくなった点についても、同様の影響があるように思えます。
ただ後者に関しては、個展の直前に受けた写真業界のレビューにおいてレビュアーから、その表現の曖昧さを指摘されたことも付け加えておきます。

展示も残すところ、週末の2日間となりました。
皆様のご来場をお待ちしております。

追伸)個展会場にも、参考資料として『パフォーマンスの美学』を置いておきますので、宜しければご覧になってください。

田尻 健二「症状の肖像」展示案内

参考文献

エリカ・フィッシャー=リヒテ著『パフォーマンスの美学』、論創社、2009年

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