舞台芸術に宿る「人は主役であり背景などではない」というフォーマリズム的な暗黙の前提

今日、池袋の東京芸術劇場で、ディレクター・ラウンジ「ディレクター/ディレクションのこれから」の、ハラサオリ氏の回を受講して来ました。

アフォーダンスをテーマとした一連の作品の創作活動はとても興味深いもので、私も取り入れたいと思うようなアイディアが幾つもありましたが、今回はその話とは別にハラ氏の『Da Dad Dada』関する話から垣間見えた舞台芸術一般に宿る暗黙の前提について書きます。

パフォーマーを舞台装置に見立てた制作『Da Dad Dada』

Da Dad Dada』のサイトをご覧いただくと、装置の項目に人名がずらっと並んでいます。
これは総勢15名のパフォーマーを舞台装置に見立てているためですが、こうした考え方はあまり一般的ではないのだそうです。

舞台芸術に宿る「人は主役であり背景などではない」という暗黙の前提

ではなぜ例外的な考え方なのか?
それは舞台芸術には、有機物である人は舞台装置などではないという暗黙の前提があるからではないかと考えられます。
これは物理的な意味のみならず思想においてもです。

確かに大多数の舞台芸術では、セリフの有無に関わらず身体も含めて人が主役、言葉を変えれば人の何がしかの行為を見せることに主眼が置かれているとの印象を受け、決して舞台装置その他の背景のような扱いにはなっていません。

「人が主役の舞台芸術にしかできないこと」旨のフォーマリズム的な信念

そしてもしこのような暗黙の前提が舞台芸術一般に存在しているのだとすれば、それは身体も含めた人の魅力に惹かれて舞台芸術に人が集まって来ているからではないかと想定されます。
だとすれば、その信念が高じて人が主役の舞台芸術にしかできないこと旨のフォーマリズム的な信念までもが生じてもおかしくないようにも思えます。

このように私が思うのも、風景画や風景写真、あるいは無機物による表現などに慣れ親しんでいるアート畑の者にとって、舞台で何かを表現する=それを人によって行うという発想には自動的にはならないためです。

今回のハラ氏の前述の作品に関する話を聞いていて、私はここ数年急速に舞台芸術に惹かれながらも、依って立つ信念は当事者の方々とは相当違うのかもしれないと思いました。

ちなみに今度の私の個展の作品『症状の肖像』も、一見人物が主役のように見えるかもしれませんがそれは見た目だけで、私自身は完全にモノ化して撮影しています。
それも身体という意味ではなく、無機物の意味においてです。
この点について近日中に記事にする予定です。

最後にハラ氏は、作品のアーカイブをとても丁寧に作られている方ですので、ぜひ参考になさってみてください。

追伸)今回の記事を翌日読み返して見て、舞台芸術がPerforming artsの訳語であることを忘れていたことに気づきました。
ですので次のページでは、その点を踏まえて考察し直す予定です。

広告
最新情報をチェック!