筆者:写真家 田尻健二
【この記事の要点】
小説も映画も見ていない状態で、束芋による『国宝』の挿絵を鑑賞した。画面を漂う煙のような色彩を手がかりに、人間関係やしがらみ、歌舞伎の伝統から逃れられない宿命について考える。
8月28日、ポーラ ミュージアム アネックスで開催されていた「束芋画 国宝」を鑑賞した。
束芋の作品は昔から好きなのだが、これまで展覧会の機会を何度も逃してきた。今回も会場を訪れたのは会期終了の2日前で、鑑賞できたのは後期の展示のみだった。それでも、久しぶりにまとまった数の作品と向き合うことができた。
本展で紹介されたのは、2017年から2018年にかけて朝日新聞に連載された吉田修一の小説『国宝』のために、束芋が制作した挿絵である。全500点が前期と後期に分けて展示され、私が見た後期には物語の後半にあたる作品が並んでいた。
会場の来場者は、以前に鑑賞した森美術館の「ロン・ミュエク」展ほど多様ではなかったものの、普段ギャラリーで目にする現代美術展よりは幅広く感じられた。映画化によって広く知られるようになった『国宝』という題材が、束芋の作品を初めて見る人も会場へ導いていたのかもしれない。
ただし、私は小説を読んでおらず、映画も見ていない。登場人物も物語の展開も知らないまま、挿絵だけを見ることになった。そのため会場で私を導いたのは、物語の知識ではなく、画面のなかで繰り返し形を変える、気体のような色彩だった。
物語を知らずに見る、断片の連なり
展示の冒頭で目にした作品には、口のなかに詰め込まれた食器や雑貨、手を合わせる群衆、着物姿の人物、倒れた椅子や円卓のようなものが、互いに距離を置いて並んでいた。
小説の場面を知っていれば、それぞれが何を表しているのかを推測できたのかもしれない。しかし私には、ひとつの連続した場面というより、誰かの記憶や夢から切り出された断片が、同じ画面に浮かんでいるように見えた。
作品を見進めると、着物姿の人物や伝統芸能を思わせる場面の間に、ヘアドライヤー、ケーブル、現代的な服装といったモチーフが現れる。過去の時代に属するような人物と、現在の日常にある道具とが、時代の境目を持たずに共存している。
こうした異なる時代の混在は、山口晃の作品をはじめ、現在では多くの作家が用いる表現でもある。しかし束芋の画面では、時代のずれが細密な情景として統合されるのではなく、余白を残した断片のまま並置されている。そのため、過去と現在がひとつにつながるというより、異なる時間が同時に意識へ浮上してくるような感覚があった。
さらに進むと、ファミリーレストランのサンデーを思わせる器のなかに、小さな人物が収まった場面が現れた。
その姿から連想したのは、「コップのフチ子」だった。もちろん、両者の意味は同じではない。けれども、日常的な器に人間の身体が入り込み、人物と物の縮尺が反転することで、深刻にも滑稽にも見える奇妙な光景が生まれている。物語を知らない私にとって、これらの挿絵はまず、現実の規則が少しずつずらされたシュールな世界として立ち上がった。
人物から生まれる、名づけられない気配
やがて気になり始めたのが、ほとんどすべての作品に描かれている、煙あるいは気体のような色彩である。
輪郭は定まらず、青、赤、黄、紫などの淡い色が、水に溶けるように広がっている。人物の頭部を覆うこともあれば、身体の背後から立ち上がることもある。最初は、それぞれの人物の内側にある空想や感情が、目に見える形で外へ漏れ出しているのだと思った。
顔が気体に置き換わったような人物を見ると、それは言葉にならない思考や、他者には見えない内面の表現にも見える。墨で描かれた細い輪郭線に対し、色彩だけが形を定めずに広がるため、身体という外形と、その内側にある捉えがたいものとが分けて示されているように感じられた。
しかし別の作品では、その気体は一人の人物の内側に収まっていない。複数の人物の間を渡り、異なる場面をつなぎ、ときには一人から別の一人へ流れ込むように広がっている。
そこで、私の見方は少し変わった。これは個人の感情そのものではなく、人と人との関係から生まれる気配なのではないか。親密さ、期待、嫉妬、負い目といった、誰か一人だけには帰属しないものが、人物の間に色彩として現れているように思えてきた。
関係は目に見えない。しかし、距離の取り方や身振り、表情を通して、人の身体に作用する。束芋の描く気体は、そうした関係の存在を示しながら、その意味をひとつに固定しない。色は美しく、やわらかい。それにもかかわらず、人物に寄り添うものなのか、まとわりつくものなのかは容易に判断できなかった。
関係が、しがらみへ変わるとき
さらに作品を見続けると、気体の印象は再び変化した。
なかでも強く印象に残ったのは、遺骨を拾うときに使うような箸が、気体のなかにいる小さな人々をつまみ上げようとしている場面である。人々は身体を寄せ、頭上から迫る箸を恐れているように見える。
ここで気体は、自由に広がる空想というより、人々を包み込み、逃げることを難しくする力に見えた。それは家族や社会のなかで生まれるしがらみ、あるいは長く受け継がれてきた因習のようなものかもしれない。
もちろん、小説の文脈を知らない以上、この場面が実際に何を描いているのかは分からない。また、同じ色彩がすべての作品で同じ意味を持つとも限らない。それでも、作品を順に見るうちに、私のなかでは「個人の空想」だったものが「人と人との関係」へ、さらに「人を縛る見えない力」へと変わっていった。
興味深いのは、作品そのものが答えを示したというより、繰り返し現れる形を追うことで、見る側の解釈が更新されていったことである。物語を知らないことは、挿絵を見るうえで大きな欠落だった。しかしその欠落があったからこそ、描かれた形と色だけを手がかりに、自分なりの物語を組み立てることにもなった。
疾走する車が生む、奇妙な静けさ
「束芋画 国宝」の作品には、もうひとつ特徴的な表現があった。動きの途中にあるはずの場面が、奇妙なほど静かに見えることである。
たとえば、中央に描かれた車は、前方へ勢いよく走っているように見える。車体の後ろには何本もの線が伸び、その下には人の姿が流れるように置かれている。漫画であれば、疾走感や緊迫感を伝える場面だろう。
しかし実際に作品から感じたのは、速度よりも静止だった。車は走り去るというより、動きの記号をまとったまま、その場に留められている。周囲の大きな余白と、墨の細い輪郭線が、動きのただなかから音だけを取り去っているように見えた。
挿絵は、小説の時間の流れから一場面を切り取る。けれども束芋の作品は、物語を説明するための一瞬を示すだけでなく、動いている時間そのものを凍結しているようだった。人物たちが逃れようとしても、関係や出来事のなかに留め置かれてしまう。その静けさは、先ほどの気体に感じたしがらみとも重なって見えた。
女方を包む、逃れがたいもの
展示の最後には、『国宝』という物語の終わりにふさわしく、女方の姿が現れた。
華やかな衣装をまとった人物の周囲には、これまでの作品と同じように、色の気体が大きく渦巻いている。扇や花、演奏する人物といったモチーフが点在する一方で、それぞれの場面は余白によって隔てられている。
私は『国宝』の結末を知らない。そのため、この挿絵が物語上のどの感情を表しているのかを判断することはできない。ただ、画面から明るい解放感を受け取ることは難しかった。
女方の背後に広がる気体は、舞台の華やかさを支える色彩であると同時に、その人物を包み込み、離さないものにも見える。芸を極めることによって得られる美しさと、歌舞伎の伝統や価値観から逃れられない宿命。その両方が、輪郭を持たない色の重なりとして人物の周囲に残されているように感じられた。
作品集の前で立ち止まる人々
作品そのものと同じくらい印象に残ったのが、会場のエントランスに置かれた束芋の作品集や販促物を、多くの人が長い時間をかけて熱心に見ていたことである。
展示室へ入る前、あるいは作品を見終えた後にページをめくるその姿からは、目の前の展示だけでなく、束芋のこれまでの活動にも関心を広げている様子がうかがえた。作品集を手に取ってすぐに戻すのではなく、その場に立ち止まり、何ページもじっくりと見続ける人が多かった。
そこにいた人のほとんどは女性だった。彼女たちが以前から束芋のファンだったのか、それとも『国宝』をきっかけに初めて作品に触れたのかは分からない。しかし、作品集や資料からなかなか離れようとしない姿を見ていると、今回の展示を入口として、束芋の作品世界へ次第に引き込まれていったのではないかと想像した。
展覧会は、展示室に並ぶ作品を見るだけで完結するものではない。そこで抱いた関心が、別の作品や作家のこれまでの活動へ広がっていくこともある。エントランスで足を止める人々の姿は、『国宝』という広く知られた物語と束芋の表現との出会いが、新たな鑑賞の入口を生み出していることを示しているように感じられた。
物語の外側から見えたもの
小説や映画を知る人が見れば、今回の挿絵から具体的な人物や出来事を読み取ることができただろう。一方、物語を知らない私が見ていたのは、和紙の余白に浮かぶ身体と道具、そして、その間を移動しながら形を変える色彩だった。
最初、それは人物の空想に見えた。次には人と人を結ぶ関係に見え、やがて逃れがたいしがらみや因習に見えた。最後の女方を包む色彩からは、美を生み出すものと人を縛るものとが、容易には切り分けられないことを考えさせられた。
挿絵は本来、文章とともに読まれる。しかし、文章から切り離されたとき、絵は説明を失う代わりに、見る者の経験や想像を受け入れる余白を得る。今回、物語を知らなかった私は、作品を十分に理解できなかったのかもしれない。それでも、分からなさのなかで同じ形を追い続けたことで、言葉になる前の感情や、人と人との間に働く力を想像することができた。
束芋の描く気体は、最後まで何であるかを明かさない。だからこそ、それは登場人物たちの内面だけでなく、作品と鑑賞者の間に生まれる、名づけられない関係そのものにも見えた。
なお、「束芋画 国宝」は2026年8月30日をもって終了している。
展覧会情報
ポーラ ミュージアム アネックス「束芋画 国宝」
会場:ポーラ ミュージアム アネックス(東京・銀座)
会期:前期 2026年7月17日(金)〜8月9日(日)/後期 2026年8月11日(火・祝)〜8月30日(日)
展覧会は終了しています。詳細は[ポーラ ミュージアム アネックス「束芋画 国宝」公式ページ]をご確認ください。