私説:アウラと関連づけられるのは芸術作品の礼拝価値ではなく展示価値の方であり、複製技術の進展とも相関性の低い概念

これまで旧ブログに、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』について批判的な記事をいくつか書いてきましたが*、ベンヤミンの理論にはもう一つ腑に落ちないことがあります。
それはアウラと芸術作品の礼拝価値とを結びつける彼の考え方についてです。

*関連ブログ:
ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』感想1~ポストモダニズム思想の理解が進む、かつ社会主義的思想に根差した写真論
ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』感想2~カメラの完璧な写実性を前提とした芸術論
ベンヤミンのアウラ論再考~洞窟壁画は絵画とはまったく異なるものであり芸術として論じること自体に無理がある

ベンヤミンのアウラ論

アウラと芸術作品の礼拝価値とは不可分に結びついている

『ベンヤミン・コレクション1-近代の意味』所収の『複製技術時代の芸術作品』を読んでいて混乱したのは、アウラと芸術作品の礼拝価値および展示価値との関係です。

たとえば古代のウェヌス〔ヴィーナス〕の像は、それを礼拝の対象としていたギリシア人にとってはある伝統連関に属していたが、それを災いをもたらす偶像と見なした中世の聖職者にとっては、また別の伝統連関に属していたのである。
しかしこの両者に対して、等しい現れ方をしていたものがある。それはその像の唯一無二という性格、換言すればそのアウラである。(中略)
決定的に需要なのは、芸術作品のこのアウラ的な存在様式が、その儀式機能から完全に分離することは決してないということである。(同書P.594)

これらの記述から、ベンヤミンはアウラという概念で表される〈いまーここ〉的性質や真正さを、芸術作品の礼拝価値と結びつけて考えていることが推測されます。

展示価値を有する芸術作品からはアウラが失われている

芸術作品が技術的に複製可能となった時代に衰退してゆくもの、それは芸術作品のアウラである。(中略)
つまり、芸術作品が技術的に複製可能となったことが、芸術作品を世界史上はじめて、儀式への寄生状態から開放するという認識である。(中略)
たとえば写真の原板からは、たくさんのプリントが可能である。どれが真正なプリントかという問いは無意味である。(同書P.590, 595)

またこれらの記述からは、ベンヤミンが展示価値に重きを置く芸術作品からはアウラが失われていると考えていたことが推測できます。

古代は礼拝価値、近代以降は展示価値に重きが置かれている

つまり原始時代において芸術作品は、その礼拝価値に絶対的な重みが置かれたことにより、何よりもまず魔術の道具となったのであり、いわば後になってはじめて芸術作品と認められたのであるが、同様に今日、芸術作品はその展示価値に絶対的な重みが置かれることにより、まったく新しい機能をもった形成物となるのであり、これらの機能のうち、私たちに知られている機能つまり芸術的機能は、将来は副次的なものと見なされるかもしれない機能として際立っている。(同書P.597)

さらにこれらの時代区分に関する記述から、ベンヤミンが古代では礼拝価値、近代以降では展示価値に重きが置かれていると考えていることが分かります。

以上がベンヤミンのアウラと礼拝価値および展示価値に関する概要です。
これらの中で時代区分に関しては納得できますが、アウラを礼拝価値と結びつける考えには疑問を感じます。
その理由を次のページで述べます。

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