ミア・シアバット《同一部位》@「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想

Takaaki Kumagai氏キュレーション「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」の感想記事その6。
ディエゴ・クルス氏に続いて紹介するのは、ミア・シアバット氏の絵画作品です。

ミア・シアバットの絵画作品《同一部位》の概要

こちらがシアバット氏の絵画作品《同一部位》(Mia Siabatto “En partes iguales”)です(クリックで拡大)。

「メニュー」と題された自画像三部作のうちの一点で、こちらの作品にはナイフが描かれていますが、他の作品にはスプーンとフォークが描かれています。
作品コンセプトは、自らの身体を様々な出来事や社会的現実が生起する「場」として捉えるというものです。
また鎖骨の辺りなど身体の一部は、まるで手術されたかのように、作品自体が針と糸で縫合されています。

「社会」という概念に問題の原因を求めがちな日本の風潮

展示カタログのKumagai氏の批評にもあるように、フリーダ・カーロの作品を連想する作風ですが、このカラフルな色彩とは裏腹に痛々しい雰囲気が感じられる作品から、次のようなことを考えました。

シアバット氏が暮らすコロンビアでの、社会問題に対する一般的な受け止め方は定かではありませんが、日本ではしばしば何か問題が表面化すると、その原因を社会(構造)に求め個人はその犠牲者であるという論調がメディアを通して専門家から発せされるためか、同じように考える人々が増えている印象を受けます。
しかしご承知のように「社会」とは人間が考え出した概念であり、それ自体に生命が宿っている訳ではありません。
したがって社会が個人を苦しめているという考え方は、一種の比喩に過ぎません。

このため一昨日投稿した仕事の記事「自己愛的な人の非共感性などの考察~秋葉原無差別殺傷事件の加藤死刑囚の言動や世間の反応を参考に: 自己愛講座49」で取り上げた殺傷事件でも、犯行当時加害者の動機を社会への恨みとする専門家の解釈が盛んに報じられていましたが、実際に殺されたのは恨みを抱かれた「社会」ではなく、現実に存在する、しかも加害者とは面識もない人々でした。

個々人が「社会」という概念の餌食になる比喩としての「メニュー」

シアバット氏の「メニュー」と題され、それゆえ人間がまるで、これから誰かに食べられる料理であるかのような印象を与える作品からは、コンセプトでも触れられているように、物事が実際に生じるのは「社会」という概念などではなく、人間をはじめとした物質性を有した存在の間でなのだと言うことを改めて思い出させてくれます。

しかしそれを社会などの概念に置き換えて考え出した途端、その思考内容は実感を失い、その結果無慈悲なものへと変化してしまい兼ねません。

このように考えていくと、作品《同一部位》に描かれた女性が、概念的な思考によって生気を奪われ物質化され、度重なる即席の応急処置により、継ぎ接ぎだらけの体にされながら辛うじて生かされている存在のように見えてきます。
またシリーズタイトルの「メニュー」とは、個々人が「社会」という概念の餌食になる比喩のように思えて来ます。

ここではもしかしたら人間までもが思考の中にのみ存在する概念へと貶められ、ここで行われている手術も空想上のものなのかもしれません。
つまり実体を失ったがゆえに、思考によって自在に操ることができる存在です。

私たち人類は、抽象的思考を手に入れることで、非常に高度な文明を築くことに成功しました。
しかしその思考様式には、私たちをかえって不幸にしてしまっている部分もあるように思えるのです。

参考文献

「TERRESTRES:ラテンアメリカ・コンテンポラリーアートへの接点」展示カタログ

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